第43回 「古本を売ります」と声に出して言った日〜深谷由布さんの話(5)


 
 京都での大学生活を終えて、深谷由布さんは実家がある愛知県へ戻ってきた。1998年のことだ。「大学では勉強もせずに不真面目でした」と言うものの、在学中に高校の国語教員免許、図書館司書資格、学校図書館司書教諭資格を取得。図書館で働きたかったが、かなりの狭き門だったし、就職氷河期で一般企業も女子の求人は少なかった。
 
「関西で就職したい気持ちはありました。でもいろいろ考えに考えた挙げ句、もう戻るしかないという消去法で実家に帰ったという感じです」
 
 ぼんやりと、本に関わる仕事がしたい、という思いはあった。そこで、かつて通った高校近くの本屋さんの求人を見つけて働き始める。家族経営の小さなお店で、アルバイトは深谷さんひとりだけ。週に3日ほど働いた。
 
「汚れた作業着の男性が、泥がついた千円札で人妻劇画雑誌を買っていったり、歩くのもおぼつかないおじいちゃんが『薔薇族』を買っていったり。いろいろなタイプの人が、いろいろな理由で来て本を眺めて買っていく。それをただ見ているだけでドキドキしました。嫌ではなくて、めっちゃ楽しかったんです」
 
 アダルト系商品の悲喜こもごもは、街の小さな本屋さんならではの光景だ。大型書店ではあまり見られない人間模様を垣間見ることができる。
 
「近所の小学生の男の子が、親が夜勤でいなくてひとりになると、夜8時くらいにパジャマでやって来て、フランス書院の文庫を買おうとするんです。それまで『週刊プレイボーイ』などの週刊誌を買おうとしては店長に止められているんですね。漫画や写真はだめだけど、文字ならよいのではと彼なりに考えた末のフランス書院なわけです。店長に相談した上で、買えないよって伝えました。その後も、隠れて週刊誌を立ち読みするのを注意したり、攻防をくり返しましたね……そんな小さなことをたくさん覚えています」
 
 店は漫画と雑誌が売上げのメインで、単行本はほとんど置いていなかった。深谷さんはアルバイト中、この店で太宰治の全集を取り寄せて買ったが、店長に「こんなの読むの? 全集を注文する人なんていないよ、この店には」と言われたという。
 
「店長と、その家族の人たちは、本が好きなわけじゃなかったんです。本にはまったく関心がないけど、返品ができて損はしないからやってる。だから返品できない岩波書店の本はない。それもおもしろかったんです。これはこれで本屋だなって。大手書店でせわしなくアルバイトしていたら見えにくいものを、20代前半で見ることができたのが、自分にとってはすごくよかったです。本屋さんに来る人はさまざまで、だからこそ本屋という存在は大切で。書店員の仕事の魅力にも気づけた気がします」
 
 この本屋さんで半年ほど働いたのち、深谷さんは岐阜に本社があった出版社に就職する。老舗出版社で、深谷さんが入社したころは、のんびりした社風だったという。
 
「基本的には編集事務の仕事でしたが、仕事内容は向いていたと思います。わたしはデーターベースづくりが好きなので、辞典を担当したときは細かく索引の言葉をひろったりするのがすごく楽しかった。ただ、出版不況もあって出版点数が増えていき、仕事内容も変わって仕事量も増えていくのに、人も足りないし、指導できる人も少なくて、だんだん社風も変わっていきました」
 
 長く勤められそうな気がしていたが、5年目を過ぎたあたりから、少しずつ違和感を覚えるようになる。
 
「女だと出世できないんだな、そういうのは求められていないんだなっていうのが、だんだん見えてきました。正当に評価されていないと感じましたし、自分が思っているような仕事のやり方は求められていないんだと思うようになりました。慌ただしいスケジュールで本をつくり続けていくことを要求される日々は、粗製濫造をしているような罪悪感があって、かといって自分で納得できる本をつくりたいから残業していると評価を落とされるし……報われないことが続いたんです。あるとき、仕事していたら急に涙がこぼれてきて、そこでやっと自分を客観視できたんですね。これはやばいやつだって。それまでは会社を辞めるという選択肢は思いつかなかったんですけど、辞めればいいんだって気づいたら気持ちがかなり楽になりました。それで、上司に辞表を出しました」
 
 上司は一応、慰留した。何もやりたいことがないのに辞めてどうするんだ、とも言った。
 
「ちょうどそのころ、アマゾンのマーケットプレイスが始まって、こづかい稼ぎでセドリをしていたんです。ブックオフで100円で買った本がアマゾンで1000円で売れる、ということができた頃で、月に5万くらい稼いでました。辞めてどうするんだって言われてムカっとしたので『古本を売ります』って言ったんです。部長は『はあぁ? そんなの休みの日にやればいいやろ』と言うので、言い返したんです。『いや、ちゃんとやりたいんで』って」
 
「いま、ほんとうに古本売ってますからね。あのときのやりとりを、ふと思い出して、ちょっと笑えます」と深谷さんは言う。「こんなにがっつり古本売るとは思ってなかったでしょう? 部長?」。
 あまり円満とはいえない退社ではあったが、最後の日に挨拶をどうぞ、と言われたので、社員みんなの前で話した。
 
「『わたしは本が好きでこの会社に入ったんですけど、このままここで働いていると本が嫌いになってしまいそうでした。わたしが好きなのは本だけなので、本を嫌いにはなりたくないので辞めます』と言いました。あらかじめ考えていたわけではなくて、その場で思いついたことを口にしたんですけど、すごくすっきりしましたね。聞いたみんなは、ポカンとしてました。でも言わずにはいられなかったですし、自分の言葉に自分で納得しました」
 
 期せずして、退職の言葉が次の仕事への決意表明になった。2008年、9年働いた会社を退職した。

屋敷直子 Naoko Yashiki

1971年福井県生まれ。2005年よりライター。 著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。