第54回 痛みと向き合った末に〜後藤聖子さんの話(5)

 

 

 1994年春、高校を卒業した後藤聖子さんは「七月堂」に入社した。

 

「小学校低学年のころから、高校卒業したら家を出てひとり暮らしをすると友達に宣言していました。自分の稼ぎで、自分の暮らしを手に入れるというのが、夢のひとつだったんです」

 

 進学するという選択肢については、当時考えられる状態ではなかった。

 

「わたしは婦人科の持病があるんです。毎月、月経のときにものすごくおなかが痛いんですね。中学生のころからなんですが、高校からかなりきつくなりました。お医者さんをいろいろ回って、当初は月経困難症という診断で、20代に入ってから子宮内膜症と多発性筋腫だとわかるんですけど、とにかく痛みが尋常じゃない。痛み止めもきかないし、痛みが消える瞬間さえないんです」

 

 後藤さんの痛みとの戦いは、10代後半から30代にかけて続き、人生設計に大きく影響を及ぼした。高校を卒業して、新しい環境で何かを学ぶという能動的なことは、とても考えられなかったという。

 

「ひと月のうち、5日から1週間くらいは、あらゆることがちゃんとできないんですね。アトピーの持病もその時期に悪化するし、風邪もひきやすくなる。痛みで吐くから、ものが食べられない。痛みを我慢しているときに、無意識に食いしばって、歯にヒビが入ったこともありました。この痛みだけは、どんな人にも経験してほしくないって心から思えるくらい、ひどい。ただただひどい」

 

「薬をのんでも、超激痛から激痛になるくらい」「下から内臓をキリですくいあげられて、ぎりぎりぎりって捻られる感じ」と、痛みと向き合わざるをえない日々について、後藤さんは言葉を尽くす。話を聞いているこちらまで、脳が痛みで支配されていく。

 

「月経痛はある程度定期的とはいえ、確実に決まっているわけではないので、仕事も急に休まなきゃいけなくなるんです。勤務先が七月堂だから、この期間にこの仕事を仕上げておく、という形で働くことができましたが、他の会社では急に休むなんてことは通用しない。やる気がないわけじゃないけど、ふつうに勤められないんです」

 

 入社して、DTPのオペレーターとして働き始めたが、七月堂に行って作業できる時間が短くなってくる。だが、出社できなくても、家でなら休みながら進められることもあるため、期間と仕事量を決めて下請けのような形で働いた。お母様が柔軟に対応してくれて、仕事を手配してくれたという。

 後藤さんは、さまざまな治療を試みた末、2年前の夏にホルモン治療を始め、現在は快適に暮らしていけるようになった。

 

「この痛みがなかったら、いまの仕事をしていないかもしれないと思っているんです。痛みがあったから他の職業を夢みることがなかったし、いまの仕事がすごく好きで始めたわけではなくて、母が心配で手伝いたいと思って始めているので。でも、ホルモン治療を始めなかったら、今年、会社を継ぐことも考えられなかったと思います」

 

「もしこの痛みがなかったら、歌にチャレンジしていたと思います」と後藤さんは話す。

 

「高校を卒業してから声楽を習っていました。歌うことが好きです。自分の体に声を響かせることで、ホール全体に行き渡るという発声法に興味があったんですね。喉を開けるって、どんな感じだろうって。それでやり始めて、12年くらい習っていました」

 

 ヤマハ音楽教室の声楽科に行き、イタリア歌曲、ドイツ歌曲、日本の声楽曲、ミュージカルのテーマ曲など、先生は幅広く教えてくれた。

 

「イタリア歌曲の譜面をもらったときに、これは何の歌ですかって先生に聞いたんです。イタリア語だからわからなくて。そうしたら、え? 知りたい? って、意外な顔をされたんですね。歌詞の意味がわからないと、恋愛の歌なのか、人生の歌なのか、青春の歌なのか、心のこめ方がわからないじゃないですか。それ以降、先生が訳したものを教材としてくれるようになったんですが、ちょっとびっくりしました。言葉の意味や、一曲に付随している物語は重要ではないのかって」

 

 歌詞には意味があると、すべての曲に対して思っていた。

 

「でも、よくよく考えてみたら、音の流れや言葉の流れがおもしろいからヒットしている曲はありますよね。そんなことがあってから、このシンガーソングライターさんは歌詞を伝えようとしながら歌っているんじゃないかなとか、音として言葉を使ってるなとか、そういうのを感じるようになりました。米津玄師さんが大好きで、米津さんの音楽にはいつも揺さ振られてしまいます。きっとそれは、言葉だけでも立ち上がる世界があるからこそ心をがっしりとつかまれて、何度でも初めて聴いたときのように感動してしまうのだと思います」

 

 声楽を習ったことで、期せずして言葉と音楽について考えるようになった。

 

「世の中で、言葉ってあまりだいじにされていないのではないか、その一方で、わたしみたいに言葉をだいじにされていない世界で生きることを恐怖に感じるような人間もいるだろうな、と思いました」

 

 現在、後藤さんは声楽は習っていないが、頻繁にカラオケに行っている。

 

「カラオケ、周囲にあきれられるくらい行ってます。10代後半くらいから、歌わないとなんかこう……気持ち悪いんですよ。大きい声で歌うことでしか解消できないものがあって、体が凝ってくるんですね。ストレッチしたい、みたいな感覚で。できれば毎週、心身のメンテナンスとして行きたい」

 

 たいてい、ひとりで行く。ひとり、真摯にカラオケに取り組んでいる。

 

「やっぱり、声楽を習っていたことが生かされているなとは思います。声の出し方がぜんぜん違います。声楽を習う前と後では。でも、弊害としては巻き舌ですね。イタリア歌曲やドイツ歌曲では、ラリルレロのRが付く文字をすごい巻き舌にするように言われるんです。たとえば、『アベマリア』なんて、〜アベマルリイヤ〜くらいになるんですね。シューベルトの『野ばら』なんて、歌っているというよりは、巻き舌に集中しているうちに一曲が終わってしまう。しっかり巻くのを癖にしてしまったので、日本語のポップスを歌うときも、油断するとすぐ巻いちゃう。人と一緒に行くときは気をつけてます」

 

 後藤さんは『アベマリア』や『野ばら』の一部分を、見事な巻き舌で歌ってくれた。インタビュー場所だった七月堂の事務所に、一瞬、天空から太陽の光が降り注いだような気がした。

屋敷直子 Naoko Yashiki

1971年福井県生まれ。2005年よりライター。 著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。