後藤聖子さんが結婚して3年後、お父様が亡くなった。2010年のことだ。
「父とは縁を切っている気持ちでいたので、どうなってもいいと思っていたんですけど、食道がんで余命宣告を受けたことを母から聞いたときに、自分でも戸惑うくらいに動揺したんです。この動揺はなんだろうって、すぐにはわからなかった。でも冷静になってみると、暴力を目の当たりにしてきたことに対する嫌悪なんですね。自分にはどうしても受け入れられない、憎しみの対象だったわけです。縁を切っているつもりでも、離れていても、親との縁は絶対にあって憎しみも切れていなかったんです。だから父が亡くなったら、このわたしの憎しみはどうなるんだろう、もういない相手に対して、一生かかえ続けるんだろうかって思ったんです」
自分のなかの憎しみを自覚した一方で、別の感情にも気づいた。
「父親に対して愛情があるということに気づきました。憎しみと愛情、ド定番のドラマみたいなんですけど、やっぱりこの道をたどるんだって、自分でもあきれました」
病気が発覚したとき、お父様にはパートナーがいた。後藤さんが暮らす街の近くにふたりで暮らし、ときどき群馬の山に行って農業をするという生活だったという。
「父は、自分が傷つけた人にお詫び行脚をしていたらしいんですね。謝罪しにいっても、受け入れてもらえないことも多かったみたいなんですけど、父なりに行動していた。そのことを母から伝え聞いて、自分の気持ちをなんとかするには、やっぱり会っておいたほうがいいのかなと思ったんです。それまで自分から父に連絡をとったことがなかったので、すっごい勇気を出して、パートナーさんと暮らしているところに行きました」
結婚前、後藤さんが29歳のときだった。
「変わってたんですよね、父が。以前はなにを話しても否定から入っていたのに、肯定的に話を聞いてくれるようになっていて驚きました。自分の終わりが見えて考えたんでしょうね。他にも、治療を積極的にするつもりはない、抗がん剤も使わない、最後まで生活の質を保つ、ということを父は選んでいて、その背中を見せてもらったのはすごく勉強になりました」
「一緒に暮らしてくれていたパートナーさんの存在も大きかったと思う」と後藤さんは話す。
「その人とは、一緒にごはんを食べて、お茶を飲みながらテレビを観てうたた寝する、という生活ができていたみたいなので、たぶんそれが心をほぐしたのかなって」
後藤さんはそれから、ときどきただ会いに行き、お茶を飲みながら、なんてことのない話をした。それはお父様が亡くなるまで続いた。
「父に、味噌づくりを教えてほしいって言ったんです。そうしたら、A4の紙3枚に横書きの丁寧な字で、自分なりのレシピを書いてくれました。イラストもあって。それからしばらくは、2月7日の父の誕生日前後、寒い時期になると味噌をつくるのが習慣でした。亡くなってから気づいたんですけど、父に何か教えてって言って、実際に教えてもらったのは味噌づくりだけなんですよね。字の書き方とか、自転車の乗り方とか、幼少期に教わるのかもしれないんですけど、そういう機会がないまま、お互い歳をとり、死の間際になって教えてもらった唯一のことが、味噌づくり」
お父様は亡くなる一週間前、激しい頭痛を訴えて入院し、意識が戻らなくなる。死後、脳に腫瘍があったことがわかるのだが、このときは食道がんの認識なので、意識は戻ると思っていた。後藤さんは、お見舞いに通う毎日だった。
「ある日、病室のドアを開けたら、先生と看護師さんが心臓マッサージをしていて。延命はしないでくれって言われていたこともあって、結局そのままわたしが看取ることになったんです。毎日お見舞いに行って、たまたまその時間に。パートナーの方と、母に電話してすぐ来てもらいました。ちょうど桜が満開で、叔母に報告の電話をしているとき、風が吹いて目の前で桜がはげしく散っていったのを覚えています」
静かに力強く、お父様の最期を話す後藤さんの声を聞きながら、父娘で穏やかな時間を過ごすことができた晩年の日々の尊さを思う。
「憎しみも、全部なくなりました。仕事のことで実際に相談するのは母ですが、今は頭の中にいつも父がいて、会話をしている感じがします」