宮崎で、お母様と1年ほど共に過ごした後藤聖子さんは、2人で東京に戻ってくると、お祖母様と3人で暮らすようになる。
「父は七月堂の印刷機の側で寝起きするようになりました。母は何も言わず、わたしからも聞くことはなく、別居してるのかな? くらいに思っていました。母は変わらず七月堂で働いていて、会社からは去らなかったんですよね。いまでも不思議なんですが」
お母様は家出前と同じように、ずっと忙しかった。後藤さんが小学生低学年のころは、ごはんを一緒に食べる時間があったが、成長するにつれて帰りは遅くなっていった。
「23時から翌2時くらいの間に帰ってくるんです。ちゃんと母が生きて帰ってくるのかという心配にとらわれてしまって、まったく寝られませんでした。キィーって門を開ける音がすると、ああ帰ってきたって安心してやっと寝られるような日々で。だから眠かったですね、小学校のときは。つらかったと思うんですけど、そのときはよくわからないし、どうしていいのか言語化もできないし」
そのころの七月堂は、印刷の仕事と並行して、出版社として詩の本を出すようになっていた。1980年代、社員も雇い、お父様は詩集の出版に力をそそいでいたという。
「当時、函入りの詩集をつくっていたんですね。でもかなり凝ったものだったので、函屋さんに断られるんです。それで父は自分で函を組み立てていて、わたしも手伝っていました。函の角に紙を定着させるのに、クリップだと跡がついてしまうので、子どもの小さい指だとちょうどよかったんです。角を押さえてろって。そのときは父も機嫌が良いし、わたしにとってはこれが家族の時間でした」
一方で、詩集の出版だけでは食べていけないので、印刷の仕事も重要だった。お母様は組版の仕事をとってきて、売上げを上げるために奔走する。当時さかんだった同人学会誌の仕事が、七月堂を支えていた。詩や短歌、俳句を楽しむ人たちの作品を集めて形にする同人誌、大学の先生方の研究発表をまとめる学会誌などだ。
「学会誌では、ロシア語やフランス文学、ドイツ文学の学会もあるんですが、当時はフォントがなかったんです。他の印刷所では断られるんですが、母は必死だったので、一文字ずつ独自の作字をしていました。だから論文1ページに1〜2時間かかるんです。でもそれが感謝されて、先生の代も変わっているのに、今でも学会誌の仕事が続いています。あのときの苦労が、今の七月堂を支えてる」
後藤さんは、中学のころからタイピングを覚え、高校に入るころには編集専用機を操るようになる。とにかく作業を手伝って、お母様の睡眠時間を増やすことが、すべての目的だった。
「やっぱり……さびしいじゃないですか。両親ともに話す時間が少ないし、七月堂に行かないと親子の時間がもてない。でも親子の時間を奪っているのも七月堂。自分にとって七月堂イコール家族でありながら、これさえなければもっと違った家族の時間があったんじゃないのかとも思って、複雑なわけです。だから、出版に対する哲学とか理念とか、そういうものを理解するつもりは一切なくて、とにかく母を休ませたい一心だったんですよね、当時は」
お父様は、80年代にとことん現代詩と向き合い、90年代に入ると「もうつくるべき詩集はない」と言って、農業に転身する。後藤さんが高校を卒業するころだった。
「出身地の群馬に土地を買って、東京と行き来しながら、2010年に亡くなるまでずっと農業をやってました。イノシシやタヌキと戦いながら、自分が食べる分と、人に分ける分、ちゃんとしたものを作れるようになってました」
激しい人生である。
「なんか…破天荒×破天荒の元に生まれてしまって、疲れます。好き勝手すぎるだろって。詩をやりつくした、という雰囲気ではなかった気がするんですよね。わたしも母もそのあたりは聞けてないんですけど。当時は、父を理解するつもりがまったくなかったし、話したくもなかったので、なにもわからなかったんです」
その後は、お母様が社長に就任し、さまざまな本を出版していく。
「父が出すものはもうないと言っても、父の仕事は偉業だったんです。だから七月堂で詩集をつくりたいと言ってくださる方が、いなくならなかった。母は、詩の出版をしたいと思って、この仕事を始めたわけではない立場なんですが、若い人の表現や本づくりの力になりたいと、この30年、休みなくやってきた。それもまた偉大なことだと思ってます」
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