第25回 宮子書店のこと〜本屋さんをめぐる体験(1)

四谷三丁目の交差点近くに、宮子書店という小さな本屋さんがあった。
開業して100年以上経つ町の重鎮。入口すぐの平台には、墨と朱の毛筆体で書かれた短冊型のポスターが数枚、積み上げた雑誌の下に折り込むようにしてかかっている。総合誌や週刊誌の広告だ。書棚は木製で堅牢、茶色が熟して飴色になっていた。すみずみまで掃除が行き届き、雨の日も風の日も気候に関係なく店内には静かな穏やかさがある。店に入るとまず深く息をして、そののち本を探す。そういう店だ。

店内右は旅行ガイドや地図、次に新書、実用書、文芸書と続く。中央は平台に雑誌や新刊の単行本、上部の棚には文庫本。左はゲーム攻略本、漫画が並ぶ。壁には、均整がとれた読みやすい手書き文字で模造紙に書かれた今月の新刊情報が貼り出されている。品揃えは特定の分野に先鋭的なわけでもなく、かといって広く浅くでもない。話題のベストセラーが山積みになるようなこともないが、世情に疎いわけでもない。そのバランス感覚が見事だった。

一度、取材させてもらったことがある。いまから10年前の冬のことだ。
町の本屋さんにおすすめの本を紹介してもらうという記事で、当時アルバイトだった I さんが対応してくれた。漫画のキャラクターが描かれた布地のカーテンをくぐって事務所にお邪魔すると、りんごジュースが出てきて、思わず「わあーりんごジュース、ひさしぶりです」とわたしは言った。「社長からりんごジュースをお出しするようにと指定がありまして。なんか町の本屋さんて感じですよね」と I さんはにっこりした。すすめられた椅子は相当年季が入っていて、動くたびにきゅうきゅうと小さく鳴った。
I さんのおすすめ本は『つむじ風食堂の夜』(吉田篤弘・著/ちくま文庫)で、「夢のような、現実のような、どこか靄がかかっているような……そんなお話です」と、本の内容と好きな理由を目をきらきらさせて話してくれた。わたしは、りんごジュースをおかわりした。
原稿を書いて、その掲載誌が発売になったときに挨拶にうかがうと、りんごジュースを指定した社長さんがいらっしゃって、「あなた、とても文章がうまいねえ。感心した。いやいやお世話になりました」と言われて赤面した。面と向かって自分の仕事を褒めてもらえる機会なんて3年に一度あればよいほうで、そうした貴重な言葉は決して忘れず、折に触れて思い起こしては自らを鼓舞している。

その2年後、宮子書店は閉店した。
社長さんの体調が思わしくなく、治療に専念するためとのことだった。自宅最寄りの本屋さんで、頻繁に立ち寄っていたはずが、知ったときは閉店から10日ほど経っていた。シャッターが下りた店の前で呆然とする。いったい何をしていたんだ、とわけもなく自分を責めた。そんな後悔をしてもどうにもならないのに。
店の跡地は、あっという間にコンビニになった。

宮子書店でよく買ったのは、漫画とノンフィクションだ。
店としてとくに力を入れていたわけではないかもしれないが、文庫の棚にノンフィクションを集めた一角があった。ポップを立てるわけでもなく、あくまでこっそりと。『東電OL殺人事件』『3億円事件』『凶悪 ある死刑囚の告発』といった王道のラインナップ(新潮文庫多め)ではあるが、当時まだ「事件ノンフィクション」の分野を深く知らなかったわたしは、行くたびにその棚から1冊買うようになる。
なかでも衝撃だったのは、1963年の吉展ちゃん事件を題材にした『誘拐』(本田靖春/ちくま文庫)で、以降、方々でノンフィクションばかりを買いあさるようになった。宮子書店は自分にとって、読書傾向を決定づけた店といえる。

ノンフィクションを読み続けていると、ほんとうのことに近づきたいという思いが強くなっていく。1冊読むと、事実の重さとその圧力に押しつぶされそうになり、これが世界の真実なのか……と衝撃を受ける。でも一方で、書かれていることがすべてではない。読者の立場では書き手の主観からは逃れられないし、書き手の判断で書かれなかったことは知るよしもない。もしかしたら、些末なこととして書かれなかったことに真実があったかもしれない。えてして、ほんとうのことは地味だったりする。
そうやってひとつの事件を、ひとりの人物を、ずっとじわじわ考え続けるのが好きだ。
遠くアラスカの地で、うち捨てられたバスの中で死んだ青年のことや、100年前の北海道で体長が3メートル近くある巨大なヒグマに襲われた開拓村のことを考え続けることが生きていく上で役に立つかといえば、たぶん立たないだろう。でも出会うことがない他人の人生を垣間見ることが、自分の人生をとらえなおす機会になるとは思う。できることなら、世界を客観的にみる力をつけたい。ノンフィクションを読みはじめて、そう思うようになった。

わたしは宮子書店ではノンフィクションとの出会いが印象に残っているが、ほかのお客さんはまた違った出会いがあったはずだ。町の小さな本屋さんで、それぞれの人がそれぞれの刺激を受けている。たとえ閉店しても、その刺激は消えることなく血肉となって引き継がれていく。そうした本屋さんをめぐる個人的な体験を、いくつか書いていきたい。

屋敷直子 Naoko Yashiki

1971年福井県生まれ。2005年よりライター。 著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。