第10回 つくば科学万博のころ〜徳永直良さんの話(1)〜

茨城県つくば市に、友朋堂書店という本屋さんがある。
1981年に吾妻店がオープンすると、当時、学園都市として街づくりが進みつつあったこともあって、1日で数百万を売り上げることもあるほど人がおしかけ本が売れた。棚に本を補充するのが追いつかないほどだったという。筑波研究学園都市として国の機関や研究施設、民間企業の研究所が移転してくれば、住む人も増えていく。80〜90年代には、大小の本屋さんが市内各地にできたものの、地域の書店としての地位は確かで、2000年には支店が3店舗あった。
だが2016年2月、取次会社の太洋社の廃業にともなって閉店を余儀なくされる。突然の発表で衝撃は大きく、惜しむ声も多かったが、11日に吾妻店は店を閉じた。だが翌17年の夏ごろから再び店を開けるようになり、郷土出版物や、岩波書店の在庫などを販売している。

これから始まるシリーズは、この友朋堂書店で30年近く書店員として働いた徳永直良さんの話だ。徳永さんが、故郷の愛媛県をあとにして筑波大学に入学したのは1983年。つくば科学万博を2年後に控えていたときである。

「当時、大学の周辺では土浦がいちばん大きな街で、駅舎が木造から建て替えられる時期でした。土浦から山を越えると、つくばなんですが、突如、公務員住宅のビルが現れて道幅が広がるんです。まわりは何もないのに、急に未来都市みたいになる。85年の万博に合わせて、その何もないところに西武百貨店ができて、映画館も入っていました。
交通網としては、常磐線の土浦駅か荒川沖駅が最寄り駅で、そこからバス。万博の開催期間には、荒川沖のひとつ手前に万博中央駅(現・ひたち野うしく駅)という臨時駅ができて、そこから会場まで二連のバスが走っていました」

筑波大学の開学は1973年、徳永さんが籍を置いた情報学類(第三学群)が設置されたのが1977年。あたらしい街の、あたらしい大学に入り、万博は目前。故郷から出てきて希望にあふれた一歩を踏み出した、と想像する。

「どうして筑波大学だったのかというのは……東京に近いとか、万博が見たかったとか……どうだろう、わからない…。情報学類に入ったのも、コンピュータに興味があってプログラムをつくりたいと思った気がするんですが、結局ちゃんと勉強しなかったんですよね。筑波大は6年以上はいられないので、5年次の3年生の時に中退しました」

なんとなく、大学に入る前からちゃんと卒業しないような気がしていた、と徳永さんは話し、こちらの勝手な想像を吹き飛ばす。

「情報学類の課程は、数学も深いところまでやるし、物理学の実験もあるし、その実験は必ず違う結果になっちゃったりするし……。たとえば、ある二点間を、地図がなくても、ひらめきで行けてしまう人がいますよね。数学でも物理でも、自分にはそうしたひらめきがないんです。知識として知り道筋をつけていく、解き方を知ってから問題をあてはめて解いていく、というタイプ。計算も苦手だし、どちらかといえば文字情報のほうが好きです」

大学では図書館がお気に入りで、ラテンアメリカ文学に傾倒した。現代企画室という出版社のシリーズが置いてあり、ガルシア・マルケスやフリオ・コルタサルなどを読んでいたという。それはもうむしろ文系……という思いをぐっと飲み込んで、これだけは役に立ったなって覚えていること、ありますか、と聞いてみる。

「『高々有限(たかだか ゆうげん)』という言葉があるんですね。数学で証明のときに使う言葉で、『せいぜい有限であって無限ではない(ので、数えられる、計算できる)』といった意味です。たしか。でもこの本来の意味じゃなくて、自分のなかでは『いつまでたっても終わりそうになくても、やり続ければいつかは終わる』という一種の処世術的な受け取り方をしていて、本屋さんの仕事をしているときにもよく思い出しました。毎日、本が山のように入荷してきて、どうやって棚に収めるんだって思うけど、分野ごとに整理していけばいつの間にか収まる、手を動かしていけば終わるって」

いい話! と身を乗り出すと、「いやよくないです。本来の意味を曲げて受け取っているわけだから」と徳永さんは冷ややかだ。でも本質的には似ているように思う。数学的な厳密さをまったく持ちあわせていない人間の感想ではあるが。

1985年3月に、つくば科学万博がスタートすると、徳永さんはアルバイトを始める。

「ゴールデンウィークにはTDK、7〜9月は東芝のパビリオンで人員整理をしました。半袖の開襟シャツの制服を着るんですけど、夏はとにかく暑くて日に焼けました。腕は真っ黒になるし、布地の厚さによって焼ける度合いも違うんです。時給は1000円で、当時としては高いですよね。街全体がお祭りで、浮かれた時代でした」

その年の秋、徳永さんは1年、休学する。そして、志賀高原のスキー場のホテルで働き始めた。

「正月前から3か月間くらい、住み込みでレストランのウェイターをやっていました。友朋堂で求人情報誌を買って、店の前の公衆電話から応募の電話をしたんです。このバイトを選んだ理由はとくになくて、休学して時間があったから」

そのほかにもアルバイトは数多く、かなりの働き者だった。

「今はもうないんですが、土浦の小さなホテルでフロントの夜勤をやりました。夕方に出勤して、布団を敷いたり、チェックインの受付。24時になったら締めて寝て、翌朝、朝食を出す、といった仕事です。そのホテルはメインが結婚式場で、客室は10部屋くらいだったんです。配膳の人に誘われて、式場の照明係をやったりもしました。
あとは、牛久の電気店でエアコンの取り付けの手伝いとか、スーパーのイベントの手伝いで行ったら、声優ショーがあって杉山佳寿子さんのGu-Guガンモの声を生で聞けたりとか。筑波大の体育系研究室のつながりで、全日空のキャビンアテンダントさんが参加する体力測定のヘルプもやりました。……なんであんなにいろいろやったんだろう…当時はそうやって学業からどんどん離れていっていたんですね」

最終的には中退することになるが、80年代、激動の街だったつくばで大学生活を送っていた活気が伝わってくる。徳永さんの生活は、その後も、つくばと深くつながっていくことになる。

屋敷直子 Naoko Yashiki

1971年福井県生まれ。2005年よりライター。 著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。