後藤聖子さんは、1975年、世田谷区梅丘に生まれた。「七月堂」は、その2年前に後藤さんの両親が立ち上げている。
「父は詩が好きだったので、印刷機があれば同人誌が作れると、なんの知識もないのに印刷業を始めたんです。同人誌を作るといっても印刷だけではないと思うんですけどね。のちに印刷業だけじゃなくて何屋にでもなれるようにという思いで、○○印刷とかではなく、『七月堂』という名前にしたらしいです。いまは七月といえば猛暑ですけど、当時は清々しく勢いがあって、何かが始まる予感がする季節だったので」
両親の仕事は忙しく、後藤さんは母方の祖母の家にあずけられていた。
「家族3人で食卓を囲んだ記憶がないです。父は社内でも家庭内でも暴言を吐いたり、暴力を振るったりする人で、酒も飲む。そうした状況で、母は365日必死で働いていて、帰ってくるのは夜中でした」
後藤さんが5歳のとき、お母様は家出する。ある日突然、発作的に。
「わたしを保育園へ連れて行く道すがら、家出したんですよ。そのときのことはよく覚えています。当時、鉄道の駅でも飛行機のチケットを売っていて、それを見て宮崎へ行こう、と。なんの伝手もない土地です。飛行機に乗るよって言われてついていって、機内から見えた空がほんとうにきれいで。母と一緒にいられることなんてそれまでなかったから、ずっと一緒なのが楽しかったんですよね。そのときは、1年も家に帰らないなんて思っていなかったので」
宮崎では、定食屋さんで親子ふたりでごはんを食べていたとき、隣席から「タイピストがいなくて困った」という会話が聞こえてきたため、お母様が声をかけ、運良く印刷所で働くことになる。タイピストとしての技術があったことが幸いした。団地に住み、後藤さんは小さい丸い画面の白黒テレビで毎週ドリフを見るのが楽しみだったという。子ども心に、急激な生活の変化について、とまどいのようなものはなかったのだろうか。
「どうしてこうなっているのか、母に聞いたことはないです。受け入れていたというか……母はなんというか、質問に答えないところがあるんですね。はぐらかすとか、無視するとかではなく、聞こえていないふりをする感じで。だからわたしが何か訴えても応えてくれる人じゃないという認識が、幼児期からありました。父が暴力を振るう人だから、喜怒哀楽を出せなかったのかもしれないです。それで歌が好きでした。歌うことで自分の気持ちを盛り上げていたのかも」
お父様は、常に怒りを抱えている人だった。
「世の中に対して、こんなことは間違ってるっていうのを、ずっと言ってました。わたしは父に手を挙げられたことはないんです。でも自分の目の前で母が罵られたり、暴力を振るわれているのは怖いですし、どうしたらいいのかわからない。一度、父が宮崎に来た記憶はあるんですが、団地の部屋にいる間、わたしはずっとベランダに置いていた洗濯機の影に隠れて、目も合わせなかったらしいです。あまり覚えていないんですけど、たぶん怖かったんでしょうね」
「でもまあ……彼のいいところは」と後藤さんは話す。
「誰に対しても態度が変わらないことですね。誰に対しても、突っかかっていく。そこはね、いいと思いますよ。特別に母に甘えていたけど、それを隠さない。その酷さが周知されていた。だからいいってわけでもないんですが、まだ受け入れられます」
お母様は家出中も連絡はしていて、離婚するまで帰らない、という話だった。そのことを後藤さんが知るのはだいぶ後になってからだ。
「宮崎の暮らしで思い出すのは、保育園に入ったけど、やっぱりよそ者だからなじめないんですね。そのなかで、日本語が通じなかったからたぶん外国の子だったと思うんですが、言葉を交わすことなくその子と一緒にいることが多かった。名前は覚えていないんですが、友人であったという思いはたしかで、彼女が記憶のなかにいてくれるから宮崎のことを肯定的に思い出すことができます。いまでもふと思い出すことがあって、幸せでいてほしいと心から願っています。あとは夕方、やっちゃダメなことですけど、母が乗ってるカブの前に座って家に帰るとき、宮崎の道路は道幅が広くて、海岸線に大きなヤシの木が立ってて、海と夕焼けがものすごくきれいだったことです」
だが何より記憶に残っているのは、お母様と長い時間過ごしたことだ。
「どこへ行くにも母と一緒だったし、ごはんも一緒に食べることができて、そんなことはそれまでもなかったし、その後もないんですよ。話す時間もない。宮崎の1年間は、複雑ではあるけど、親子の時間としてあってよかったと思っています」
後藤さんは、幼少期の最初の記憶は、母に抱かれて見ている空がきれいだなと思ったことだという。
「たぶん後付けの夢なんだとは思います。子どものころのいろいろな写真を見てできあがったイメージだと思うんですが、家族のことを思い返すと、雲が浮かぶ空の光景がふっと出てくるんですよね」
宮崎へ向かう飛行機から見た空、母に抱えられて見た夕暮れの空。そうしたさまざまな空の記憶が、後藤さんのなかでは家族の風景として深く留まっているのかもしれない。
