第64回 2016年秋、旅に出る 〜加賀谷敦さんの話(6)

 

 大学を卒業して就職した印刷会社を辞めて、加賀谷さんは旅に出た。2016年10月、23歳。ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したころだった。

 

「とくに目的の地があったわけではないんです。関西から西に行ったことがなかったので、最初は広島に行きました。そこで初めてゲストハウスに泊まったんですね。旅人同士で話を交えたりするんですけど、やっぱりいろいろな人が集まるんです。それまでなんとなく自分と似たような層の人とばかり接してきたけど、アウトサイダーな生き方とか、自転車で全国を回ってるとか、若者からそうでもない人までいる。違う形で社会と接続し始めた感じがしました」

 

 以降、函館、青森、倉敷、那覇、大阪、京都、奈良と、その都度家に帰りながらも旅を続けた。使う暇がなかったこともあって、働いていたときに稼いだお金がかなり残っていたのだ。旅先ではなるべくゲストハウス風のところに泊まった。

 

「そのときの自分にとっては、知らない人とコミュニケーションをとることがしっくりきました。ある種の救いというか。生きていくうえで何かにつけ、こうせねばならない、みたいな考えがわりと強かったんですけど、そうじゃなくていいんだって。これまで読んできたものとは違うジャンルの本を読んで感銘を受けるときってありますよね。そんな感じがしました」

 

 とくに忘れがたいのは函館でのことだ。

 

「山に登ったり温泉に入ったり、ひとしきり楽しんだあとに、夜ふらっと立ち飲みに行ったんです。地元の人しか来ないような、わりと入りにくいところだったんですけど、店主や常連の方たちが、どこから来たのって話しかけてくれて。で、これまでの足跡を話したら、ぜんぜん大丈夫でしょって。まだまだ若いし、俺なんて30代で初めて定職に就いたんだからさ、みたいなことを言ってくれて。この体験が、いまの店でカウンターをつくった理由のひとつなんですよね。いま生きている人の言葉で救われることもあるんだなって、そのとき気づいたんです」

 

 かつて書かれた言葉こそが、価値観が定まっていて共感しうる考え方であり、生き方である、と思っていた。

 

「道の歩き方というか、こういう歩き方もあるよねっていうのは、そのとき生きている人、たとえば自分とは違う境遇の人と話してこそ、気づくこともあるんだっていうことを、ようやく知ったんです」

 

 勤めていた印刷会社のトラウマからか、しばらく本が読めなくなっていた。でも、本を手に取りたい思いは断ち切れずに残っていた。

 

「地方の本屋さんを調べていたら、古本屋の店主さんたちがエッセイを書いているのを知ったんです。那覇の『市場の古本屋ウララ』の宇田智子さんとか、倉敷の『蟲文庫』の田中美穂さんとか。お店の存在もこのとき知って、感銘を受けて会いに行こうと。宇田さんの本は、那覇のジュンク堂で買って、読んだ次の日に店に行きました。緊張して、本すごいよかったです、くらいしか言えなかったんですけど。旅していくうちに、そういう人たちの存在も知って、励みになったんですよね」

 

 旅の後半は、本屋さんの店主に会いに行きたいという気持ちが大きくなっていった。旅先では、有名無名に関わらず書店に立ち寄った。地元に根づいた古書店で、郷土史のような、そこでしか売られていないような本を見るのが好きだった。

 

「いわゆる観光地に行くことはあんまりなくて、夜にひとり飲みに行くことが多かったです。その地に暮らす人と話したい。個人でやっていらっしゃる飲み屋さんにはなるべく立ち寄るようにしていました」

 

 これまでの話からだと、加賀谷さんはどちらかというと人と交わるのがあまり得意ではないタイプに思えた。

 

「このときは、何か自分から動かなきゃって気持ちが生まれていたんだと思います。会社を辞めたことで焦りもありました。同期のみんなは今ごろ働いてるし、自分は何やってるんだろうって、すごくうしろめたい気持ちがある。言うだけの人間だったんで、行動しなきゃだめだっていうコンプレックスみたいなものもあって。変わりたいという思いがありました」

 

 この時期に読んだ本のなかに、島田潤一郎さんが書いた『あしたから出版社』があった。

 

「生き方として出版社を選んだ島田さんに感銘を受けました。ギラギラした野望や熱量ではなく、あくまで個人的な理由で出版社を始めたことに、すごく共感……というのもおこがましいんですけど。それで、自分が生きていくためには、本屋がいちばん適してるかもしれないと考えるようになったんです」

 

 そして加賀谷さんは、フランスのパリへ行くことにする。2017年3月のことだ。

 

「大学で仏文学専攻だったのにフランスに行ったことがなかったので、最初で最後くらいの覚悟でパリに行きました。まず行きたかったのが、シェークスピア&カンパニー書店。書店でありながら、作家志望の人へ向けて、店の手伝いをすることで宿泊場所を提供しているんです。今はどういうシステムになっているかわからないんですが。本が醸し出す温かみがあり、それでいてすこし憧れも感じさせるような空間が、すごく印象的でした。宿泊できる本屋という業態がいいなと思ったんです」

 

 このときには、すでに加賀谷さんは自分で本屋をやるという気持ちになっていた。

 

「いろいろな店主さんの本を読んだり、実際に行ってみたりして、やるんだったらカウンターがあって、宿もついた本屋をやってみたいと、思い始めていました」

 

 

屋敷直子 Naoko Yashiki

1971年福井県生まれ。2005年よりライター。 著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。