2011年4月、加賀谷敦さんは大学に入学した。3月におきた東日本大震災の影響で、入学式はなかったという。
「文学部フランス文学専攻でした。これまでの話の流れからすると、日本文学専攻だろうと思いますよね。太宰治、大江健三郎、中原中也など、当時よく読んでいた作家や詩人のほとんどが仏文科卒だったり、仏語専修だったりしたんです。だから作家たちのルーツをたどるべく、フランス文学専攻にいこうと」
かつて、ニルヴァーナのカート・コバーンを掘り下げて調べたように、「作品」に惹かれると、それをつくった「人」を深く知ろうとするのが、加賀谷さんの傾向なのだろう。
「自分のなかでは、もうバンドはやめたつもりでいました。大学に入って、一応軽音サークルも見てみたんですがやっぱりもう違うのかもと感じて、映画をつくるサークルに入りました。バンド解散と前後して、映画に興味をもちはじめたんです。娯楽映画というよりは、ゴダールとかフェリーニとかミニシアターでかかるような監督の作品ばかりで、もちろん背伸びもあったんですけど」
このサークルが、加賀谷さんにとっては大正解だった。
「映画に詳しい人はもちろんいましたが、音楽にも詳しかったり、すごく本を読んでいたり、いろんな方面に通じていた先輩たちが集まっていたんですね。自分にとって、はじめて居所をみつけた感覚がありました。先輩について遊びに行って、ほんとうにいろいろなことを経験できたんです。先輩の家で、人生で初めてレコードを聴いたり、棚にあったのをすすめられて小学生の頃ぶりに漫画を読んだら、こんなに文学を感じる作品もあるのかと知ることができたり。みんなで買い出しに行って、朝まで映画を観たり、くだらない話をしたり」
サークルでは映画を制作した。1年生は新歓合宿先で作品を撮影し、前期が終わったときに開かれる納会で公開するのが慣例だった。みんなで作品をつくるのはバンドのようで楽しかったが、いざ自分でつくるとなると痛感したのは、脚本を書くことの難しさ。のちに、先輩たちにキャストをお願いして、初めて脚本を手がけた作品を撮った。
「これも……かなり恥ずかしいものでした。なんかこう、気持ち悪い脚本書いちゃって、素面ではもちろんですけど、酔っ払ってても観られないです。ほんとうにひどい」
その後、2〜3年生では、劇伴(劇中に使う音楽)をつくったりした。いま思い出すのは、映画制作そのものより、授業の合間や終わったあとにみんなで集まって、本や映画の話をしたことだ。役に立つというわけでもない、あのときのやりとりがずっと自分のなかに残っているという。
「批評のおもしろさを、大学生のときにすごく学びました。映画もそうですし、文学にももちろん、あらゆることにだいじだなって思います。批評が加わることで、作品に新しい層が生まれるような気がするんです。サークルには議論好きな人がいたので、これはこういう見方もあるのか、そういうことにつながるのかって、話すたびに世界が広がっていくようで楽しかった」
もちろん大学の授業でも、得るものは多くあった。
「陣野俊史さんという、フランス文学者でヒップホップ研究もやっていらっしゃる先生の授業は特に印象に残っています。フランスのサッカーやヒップホップを通じて、貧困や移民について社会学的に考えていく授業で、学生の人気も高かった。他にもフランソワ・オゾン監督の映画を観せてくれたり、セルジュ・ゲンズブールの歌詞を読んだり、ポップカルチャーにもこういう切り口があるんだなっていうことを、初めて知りました。
あと、選択科目で殺人と文学をテーマにした授業も覚えてます。町田康の『告白』や、永山則夫の『無知の涙』、ドストエフスキーの『罪と罰』などを下地に、人を殺してしまう以前に、もし“言葉”を有していたらどうだったか、“言葉”は人をどう生かすのか、といったことを考える講義でした。自分の思っていることや感じたことを言語で形にすることは、自分や自分のまわりでは当たり前の行為だと思っていたんですけど、恵まれた特権的なことだったんだと。文学のちからの新たな一面を知ることができた授業でした」
また、大学が神保町に近かったこともあり、古書店でアルバイトもした。
「将来、古本屋をやりたいなとぼんやり思ってた気がしますが、当時は、なりわいにするというより、死ぬ前にやりたいことのひとつ、くらいのふんわりした感じでした。でも、本の縛り方や積み方といった基本的なことから、値付けのやり方、均一本にまわすものと棚に差すものとの仕分けの感覚、何よりお客さんとのやりとりなど、いま思えば現在の仕事のベースになっていますし、欠かせないことを教わっていました。でもその時はやっていることが今後につながるなんて当然考えていなくて、とにかくいろいろな人から流れてきた本を見たり囲まれたりするだけで、すごく楽しかったんですよね」
現在の土台となるような4年間の大学時代を経て、2015年春に加賀谷さんは総合印刷会社に就職する。22歳、過酷な社会人生活が始まった。