小田急線豪徳寺駅から歩いて5分。「七月堂」は、詩集などを編集・出版する版元で、新刊・古書を扱う街の小さな書店でもある。創業は1973年。当初は印刷業から始まり、詩の同人誌や学会誌を手がけていた。2016年に七月堂古書部を設立、事務所の一角で古本を販売するようになる。2021年11月に明大前から豪徳寺へ移転、手前に書店、奥に事務所という絶好の物件を活用して、新たな道を歩み出した。
これから始まるシリーズは、「七月堂」の編集者であり、古書部の部長でもある後藤聖子さんの話だ。「七月堂」は後藤さんの両親が立ち上げた会社で、現在はお母様と共に働いている。2024年1月には、取締役代表社長を引き継いだ。
後藤さんにはかつて、明大前時代の古書部を取材させてもらったことがあり、2020年のコロナ禍のときには、おすすめの詩集を紹介する雑誌の企画に力を貸していただいた。そのとき、コロナ禍で対面取材もままならず、電話で話をうかがった。当時は未知のウイルスに対して世界中が疑心暗鬼になっている時期だったが、好きな詩集の話をする後藤さんの声は明るく力強く、笑い声もほがらかで、話していると電話口の向こうに太陽がいると思った。先行き不透明な不安が、すこし溶けたような気がしたのだ。そんな太陽な部分に助けられた一方で、太陽じゃない部分もあるだろうなとも感じて、今回の取材をお願いした。
「七月堂」は、招き猫で有名な豪徳寺の近く、住宅街のなかにある。人通りが多いわけではないが、店前の広い軒先には「本」と書かれた赤い看板が立ち、雑誌や古本が並んでいて、ここが書店であることがわかる。大きな窓には赤いカーテンがかかり、さながらサーカス会場のようだ。中に入るとまず、「七月堂」が出版した詩集がずらりと出迎えてくれる。古本は文芸、人文、料理など生活一般、沖縄関連など。壁沿いの天井まである棚には、奥から詩、短歌、俳句と、さすがの充実した品揃えだ。
「明大前から移転してきて、詩歌の本を増やしました。新刊を増やして、全体の7割くらいが詩歌関連の本。以前は、美術や映画、音楽の古本があったんですけど、やはり詩歌のほうにとがったほうがいいかなと思って。なので、揃えるジャンルの幅は狭まって、詩歌の本は、新刊・古本合わせて前より増えたという感じです」
移転したのは、将来を見据えてのことでもあった。
「コロナ禍で車移動の方が増えて、明大前の店舗の前の道がものすごい交通量になったんです。排気ガスがひどくて咳が止まらなくなったりして。人が避ける道になっちゃったんですね。だからこれからここで長くやっていくのは難しいなあと思い始めました。母はいま75なんですが、たぶんずっと仕事をしたい人なので、梅ヶ丘の自宅に近いほうが、母もわたしも長く働けるかなと思って」
古書部のスペースが充分にあることも、物件の決め手になった。
「古書部を始めてみて感じたのは、人が来られる場所があると縁がつながって、自分自身が救われるんですよね。いろいろな道が見えてくる。この物件は、一部屋分くらいの軒先スペースがあるのも決め手でした。イベントもできるし、やっぱり店先に本を置けるのは古本屋さんとして憧れです」
場が広がったことで、本から広がるさまざまなイベントを開催している。
「版元や書店って、詩と日常をつなげる存在だと思うんです。そのために力を貸してくださいという気持ちで、イベントに来てほしい人に声をかけさせてもらっています。まず最初に来てほしかったのは、花屋さんとコーヒー屋さんでした。花とコーヒーと本、という組み合わせが、自分のなかで完璧な幸せの象徴なんですね。花を飾った部屋で、自由な時間があって、家事もメールの返信も終わり、コーヒーを入れて、さあ本を読もうと……そういうイメージです」
さまざまな巡り合わせで、2016年に古書部を立ち上げたときは、古書店業のノウハウはまったく知らなかった。だがいざ“場”を設けてみたら、「七月堂」の本を買ってくれた人たちに直接お礼が言えたり、作家と気軽に話せる機会が増えたり、版元業の支えにもなったという。「本を売る」ことを体験することで、自分たちの本を置いてくれている書店のありがたさをより実感した。
「明大前にいたとき、ときどき文庫本を買いにいらっしゃる近所の女性の方に、田舎の秋田に帰るからと買い取りを依頼されたことがありました。その方とは、もう一度お会いする確率はかなり低いはずです。でも、買い取った本を棚にさしていると、その人の存在を引き継いだ気持ちになるんですよね。たった1回の買い取りでも忘れないんです。思えば、いま並んでいる本の持ち主はみんな違うわけです。それぞれに人の物語があって、この本はいまここにある。ひとりひとりの気配を感じます」
ときには、「七月堂」の本を買い取ることもあって、「おかえり!」と思う。版元として本をつくり、古書部では本を売る。本の一生のうち、かなりの部分にたずさわっているおもしろさが、ここにはある。