家の本棚を見て過ごす時間が増えた。並ぶ本の背表紙を1冊1冊ゆっくり見ていくと、買った店のことを思い出す。内容はうろ覚えでも、どこの店で買ったのかは覚えていることに、自分でもすこし驚いた。
この本棚は日記のようなものだ。正確な日時はわからないが、場所と出会った人の記録。店主の顔や風体を脳内に浮かべて、元気かな、いまどうしてるかな、と思いを馳せる。自ら手にとったのではなく、店主が薦めてくれた本はとくに印象深い。
『文学者追跡 1990年1月〜1992年3月』(小山鉄郎/文藝春秋)は、西荻窪の「古書西荻モンガ堂」の店主、富永正一さんに教えてもらった本だ。お店の開店時に雑誌の取材でうかがったとき、わたしが作家の佐藤泰志の本を読んだことがないと話したら、富永さんは「それはよくない…」という表情をして、でもそのとき店に作家の著作はなく、「ではこれをまず読んでください」と渡されたのだった。
著者の小山氏は文芸に強いジャーナリストで、この本は90年代の文学界の動きをたどったコラム集なのだが、そのなかに佐藤泰志の死についての文章がある。作家との初めての出会いが追悼文となったことはともかく、どうしても佐藤泰志という作家に触れてほしいという富永さんの熱意が伝わってきた。しかも「この本は差し上げます」と言う。掲載されている作家の写真は、どことなく富永さんに似ているように思った。
帰宅して読んだその文章は、作家の最期を書きながらも人柄や作風が浮かび上がってくるもので、さっそく代表作である『海炭市叙景』を買って読んだ。ある町に暮らす市井の人びとの群像劇で、それぞれの日常が飾り気のない静かな文体でつづられている。風景描写もすばらしいが、何気ない会話のやりとりに独特のリズムがあり、日々の営みの積み重ねがとても愛おしくなる小説だ。
『池袋・母子餓死日記 覚え書き(全文)』(公人の友社編)。これは吉祥寺の「BOOKSルーエ」で買った。1996年4月、豊島区池袋のアパートの一室で77歳の女性と41歳の長男が餓死しているのが発見された事件で、その当事者の女性が死の直前まで日常生活を詳細に描き残した日記である。書店員さんにおすすめの本を聞くという取材で、担当してくれた花本武さんは、この本を1階のレジ横、「文藝春秋」や「世界」といった総合誌がある棚に並べていた。「いろいろな思想をもつ人が見る棚に、この本があることに意味があると思う」と花本さんは言った。「僕のエゴではありますが」と。
掲載されている日記は、1993年12月24日にはじまり、1996年3月11日で終わっている。天気、気温、食べたもの、買ったもの、公共料金や税金、家賃などを支払った金額、身体の不調の具合、そしてどんどん不安に押しつぶされていく様を狂気すら感じる執拗さで書き記している。後半になると、「ゴミを出させて頂きまして有難う、ございました、」「電話代も、無事に、おさめさせて下さい。」「お陰様で、無事に買物に、行かせて頂きまして、有難うございました、」と、何かに祈り、無事にできたことを感謝している文体になってくる。もっと他の道があったはず、という思いは読み進めるうちに打ち砕かれる。昨日と変わらない日常を今日も続けたい。拠り所はその執念だけだったのだろう。読むたびに身体が冷たくなるが、花本さんが総合誌の横に並べていた意図を思い返す。
かつて鎌倉に、「古書ウサギノフクシュウ」という古本屋さんがあった。店主の小栗誠史さんに薦めてもらったのが『うつわと一日』(祥見知生/港の人)だ。著者は、鎌倉にある器の店「うつわ祥見」の店主で、日々の食事をのせる器についての言葉を集めた本である。
ーー日々とは、雑誌で取りあげられるほど、素敵でもカッコいいものではなく、惨めで悲しいこともある。でも、その惨めで悲しい時間ほど愛しいんじゃないだろうか。器はその時間を一緒に生きていくものです。ーー
作中のこの言葉を、折に触れて読み返す。
「古書ウサギノフクシュウ」でこの本を買い、隣りのカフェで読んでいたときにこの言葉が目にとまり、御成通りにある店に行ってみた。それまで、器というか陶芸にほとんど興味がなかったが、店内にあった御飯茶碗に引き寄せられた。尾形アツシさんという陶芸家の方の作品だった。当時、つかっていた茶碗がいまひとつ使いにくかったこともあって、手に馴染むものを購入し、いまでもだいじに使っている。
今春、鬱々と家に引きこもっている間に『うつわと一日』を再読し、ふと思いついて「うつわ祥見」のHPを見てみると尾形アツシさんの作品が販売されていたので、コーヒーカップを2客買った。細かいヒビを定着させている独特の手触りが気に入っている。
著者の根底に流れるのは「ふつうの日々への敬意」だ。日々の食事をのせる器をあつかう職業だからこそ、その大切さを実感として伝えたいのだろうと思う。
家の本棚を見ていると、自分は「日常」を描く本に影響を受けてきたことに気づく。それはたぶん、庄野潤三に端を発している。『明夫と良二』『夕べの雲』『ザボンの花』にはじまる、自分の家族を題材にした作品を生涯書き続けた作家だ。小学生のころ、両親に薦められて読み始め、大学の卒論のテーマでもあった。庭の木々の成長や、家族との会話を生き生きと描写し、一見何も起こらない日々のようでいて、すこしずつ変わっていく。一家の成り行きを見守りたい。見守り続けたい。そんなちょっとした中毒性がある。
卒論を書くときに読んだエッセイのなかに、忘れられない一節がある。すこし長いが引用する。
ーー私は、本当のことが書かれている時でなければ、おかしくならないという風に考える。本当というのは、人生の真実にふれていることという意味である。
人間がまともに生きて行こうとしている姿には、悲しいところがあり、その悲しいところがまた屢々おかしみを誘い出すものだ。いつも必ず悲しくはないかも知れない。いつも必ずおかしくはないかも知れない。だが、どうかしたはずみに、何でもないことが悲しく見える。何でもないことがおかしく見える。それを私は尊重する。
おかしいというのは、真面目なものなのだ。(好みと運/『クロッカスの花』所収)ーー
読むたびに、生きることのすべてがここにある、と思う。読むたびに、言葉の力と、本があることの心強さを感じる。
今まで読んだ、もしくは買ってもまだ読んでいない本が詰まった家の本棚は、自分の生活の源であり糧だ。日を追うごとに確かなことが薄れていくいま、自分の体力や気力が萎えてくると誰かにすべてを委ねてしまいたい誘惑に駆られる。そういうときは、本棚をじっと眺める。ここにある日常を、信じようと思う。