下田裕之さんは、1984年、兵庫県伊丹市に生まれた。その1ヶ月後には東京の中目黒に引っ越し、4〜5歳くらいまで過ごす。その後、埼玉の浦和市(現・さいたま市)に移り、小・中・高校まで通った。下田さんにとって忘れがたく、のちの人生に大きな影響を与え続けているのが、80年代半ばから末期にかけて過ごした中目黒での記憶だ。
「中目黒や祐天寺あたりの風景にインパクトがあったことを覚えています。住んでいたのは社宅なんですが、そのまわりの風景の密度がものすごく濃かった。小学生以降を過ごした埼玉の浦和はいわゆるベッドタウンで、当時は商業施設があるわけでもなく、“郊外”という感じの住宅地で、その何もなさが子どもごころにはけっこうショックでした。それで、幼少期を過ごした東京の雑然とした、情報量が多い感じを恋しく思うようになったんだと思います。
当時は、そうした思いを言語化できなかったんですけど、成長するにつれて80年代がすごく遠くに感じてきました。思春期に入るくらいの12〜3歳のときは、まだインターネットも普及していなくて、過去の情報や動画を簡単に見られる状況になかったこともあって、80年代の音楽や本に対して距離感とかノスタルジーが交じった感覚をもつようになってきたんです。そうした漠然とした自分のノスタルジーを掘り起こしたいというのが、古本屋やカルチャーに興味をもつきっかけになりました」
下田さんにとっては、東京で過ごした数年の幼少期がかなり濃密で刺激的な時期だったのだろう。その後、郊外に引っ越して風景や環境が変わったこともあって、より一層、記憶が濃縮されたのかもしれない。以降、寝ても覚めても80年代のことを考えるようになる。
「中学、高校と古本屋に通うようになってからは、80年代の雑誌に載っている当時の風景の写真を見るのがすごく楽しくて。当然、まわりの同世代とはまったく話が合わないし、親からは不気味がられていました。当時は80年代なんて、つい10年ほど前だから懐かしがるほどのことでもないですからね。
北浦和にディスクユニオンがあって、思春期のころは通い詰めました。金もないのでそんなには買えないですけど、レコードやCDを見て、逆に言ったらそういうのに必死にならないと、中目黒あたりを歩いたら文化的なものがいろいろあるのに、自分が住んでいる場所はそんな状況じゃない……という落差が苦しくて。80年代といえば東京、というように自分の中ではなっていきました。そういう少年期でした」
中学生のころは、リアルタイムの音楽を聴いていたこともあった。電気グルーヴやコーネリアスが名盤といわれるアルバムを出した時期だ。『A』(電気グルーヴ/1997年5月発売)、『ファンタズマ』(コーネリアス/1997年8月発売)の2枚を中学1年生のころに聴いたことが、ポップミュージックにハマるきかっけになった。
「電気グルーヴがすごく好きになって、メンバーがかつてやっていたバンドがあるらしいと本を読んで知り、その所属が80年代にできたナゴムレコードというインディーレーベルで、それを主宰していたのがケラさんで、そのケラさんがやっていた有頂天というバンドを聴いたら、80年代のテクノポップが好きになって……」
結局、行き着く先は80年代の音楽になる。下田さんは80年代の魅惑に抗うことができない。沼である。
「さかのぼっていった感じですね。4〜5歳くらいまでの東京の記憶と、有頂天の音楽はすごくフィットしていて、あのころの感じがした。今でも、初めて部屋でCDをかけたときのことをよく覚えています。それから有頂天のことを調べたい、ケラさんが紹介している本を読んだり映画を観たり、当時の雑誌を探して神保町に通うことが始まりました」
そんな経緯から、下田さんは「小説好きな人たちとは読書体験が違いすぎるんですよね…」と言うが、自宅には本がたくさんあり、とくに母親から受けた影響は少なくないという。
「母は音楽や映画、文学が好きな人で、ジョン・アーヴィングがいろいろあったり、唐十郎の戯曲や淀川長治の映画の本があったり、ロック好きなんで『ミュージックマガジン』のバックナンバーがずらっと並んでいたりしました。ロックと映画と英米文学ですね。
本はよく買ってくれました。絵本は、佐々木マキとか長新太とか、なぜかちょっとストレンジなものを与えられて、のちの自分の好みにかなり作用しています。小学生のころは『エルマーの冒険』とか児童文学を読んでいたんですが、高学年のときに図書室で読んだ『合成怪物』(レイモンド・F・ジョーンズ)というSFは相当なインパクトでした。身体を失っても脳だけで生き続けるという話で、60年代の作品です。児童文学から英米文学にはいかなくて、どうしてもアングラなほうに興味がいく。中高生のころは、筒井康隆とか、60〜70年代の日本SF作品を文庫で読んだりしていました」
加えて、下田さんにとって避けて通れなかったのは、ウルトラマンや仮面ライダーといった特撮作品だ。
「幼少期、80年代の特撮も観ていましたが、ちょうどレンタルビデオが普及してきた時期で、60〜70年代の作品がレンタルビデオ店に並ぶようになりました。それらの“60年代の画質”が好きで、ここでも時代がずれているんですけど。
80年代のちゃんと整理された作品と違って、たとえば『仮面ライダー』の最初のころは怪奇ドラマの演出がとられているからけっこう不気味で、でもそれがすごく好きでした。『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』では、脚本家に沖縄出身の方(金城哲夫氏)がいたから、本島と沖縄の社会問題が物語に重なるような回があって、当時は意味はわからないけど刷り込みにはなりますよね」
人間は、幼少期から現在までに吸収してきたものでできている。文字を読み、映像を観たときの体験や感情の記憶は、ほんとうに尊い。下田さんは、そうした記憶を貪欲に積み重ねていっている。出発点は中目黒かもしれないが、浦和も重要なファクターのように思える。
「もしかしたら、ずっと東京で暮らしていたら、ちがう方向にいったかもしれないです。東京で生まれ育って大人になった人たちにとっては、僕にとっての幼少期の記憶のような状況が当たり前の光景で、日常かもしれない。でも、こういってはなんですけど、落差があるところに引っ越してしまったので、あの濃密な記憶はなんだったのかってことを考え続けている。大人になってから、当時住んでいた中目黒のあたりに行ってみましたけど、好きな町だなあとは思いましたが、自分の居場所というわけでもない。どこへ行ってもしっくりくるところはない、という感覚はずっとあります」。