徳永直良さんが生まれ育ったのは、愛媛県周桑郡小松町。現在の西条市だ。
実家周辺の地図を、自ら持参した小さなノートに書きながら説明してくれる。
「最寄りは予讃線の伊予小松駅で、高松と松山をつなぐ国道11号線がこう走っていて、妙之谷川が南北に流れてます。南のほうには四国でいちばん高い石鎚山があって、ここには四国八十八箇所札所の横峰寺があります」
ボールペンで、黒、赤、緑と色分けして書いていく。赤で書き込むのは、近所の本屋さんだ。
「地域には小学校がふたつ、中学校がひとつあって、実家は中学がないほうの地区でした。中学があるほうの地区に、個人経営の小さな本屋さんが二軒。二畳分くらいの平台があって、教科書も扱っている。駐車場もない。そんな本屋さんです」
家には、小学館発行の『少年少女 世界の名作文学』全50巻のセットや、子ども向けの百科事典のシリーズがあって、よく読んでいた。そうした全集が「棚でいうと6段棚が2本分くらい」あったと徳永さんは話し、風景としての本棚が目に浮かぶと同時に、書店員ならではの描写に感じ入る。
「いちばんはじめに買った文庫は、星新一さんの『午後の恐竜』です。伊予小松駅の売店には本も売ってて、そこで買いました。このなかに、「エデン改造計画」というショートショートがあって、良いものはコマーシャルする必要はなくて、そうしないと売れないからコマーシャルするんだ、とあって、最近読み返すまでは忘れていたんです。でもいま、テレビのコマーシャルの仕組みについて同じようなことを自分の子どもに話しているんですね。この本を読んだことが、知らず知らずに身についていたんだなと思いました。斜に構えたものの見方みたいなものが」
家からすこし離れた西条高校に進学し、自転車で30分くらいかけて通うようになると、遠くの本屋さんまで回るようになった。
描く地図が広がり、荒木書店、新潮堂、セイワ書店と書店名が赤字で書き込まれていく。
「高校まではフィクションしか読みませんでしたね。とくに筒井康隆は、この人の本にハズレはないと思いながら、ずいぶん読みました。あとは平井和正の『幻魔大戦』。ある意味カルト的なお話なので、青春のコンプレックスを持ち上げてくれるような気がしました。海外のものも読みましたが、影響を受けたのは日本のSFです」
徳永さんの実家は、商売を営んでいた。
「店はいまのコンビニのようなもので、大きい冷蔵庫にジュースがあったり、乾物があったり。母が店番です。親父は野菜の仲買もやっていました。朝早くトラックで市場に行き、仕入れたものを他の市場やスーパーに持っていって昼ごろには帰ってくる。
記憶に残っているのは、奈良漬け用の床をつくっていたことです。酒屋さんから仕入れた酒粕を、倉庫内に掘り下げたコンクリート製のタンクに入れて封をして、冬から夏にかけて発酵させるんです。それが奈良漬け用の酒粕になる。これを売っていました。瓜を漬けたりするんですね。2〜3メートルくらいの深さがあるタンクが5つか6つあったので、けっこう大がかりでした」
徳永さんが10歳になるころには商売もうまく回りはじめた。その後、店は閉じたものの仲買の仕事を続けていたお父さんは、徳永さんが23歳のときに50歳で亡くなる。お母さんは、40歳のころから書道教室を開いていて81歳を迎えるいまも現役の師範だ。
「2004年に、近くの妙之谷川が大雨のときに増水して、流れてきた木や土砂が橋のところに詰まって周辺が水浸しになったんです。実家も一階は泥だらけになり、母は二階に上がって、ことなきを得たんですが、住めない状態になりました。いまは同じ家をリフォームして母がひとりで住んでいます。商売をやっていたあたりを書道教室にして、週に何回か生徒さんに教えている。何年か前には日展にも入選したんです」
徳永家に文学全集や百科事典を揃えてくれたのは、お母さんだったという。お母さんは『赤毛のアン』が好きで、新潮文庫の村岡花子訳のものが何冊かあったのを、徳永さんは覚えている。
こうした実家生活の話を聞いているうちに、大学入学時の「コンピュータに興味があってプログラムをつくりたいと思った気がする」という志望動機が、いつごろ芽生えたのかが気になってくる。
「中学の終わりごろに、雑誌で知ったことがきっかけでプログラム電卓を買ってもらったんです。これは関数機能で複雑な計算ができて、128ステップまでの計算手順を記憶できました。画面の7セグ表示も制御可能なので、インベーダーゲームのまねごとができたりするんです。これがけっこうおもしろかった。
進学した西条高校には、電算機部というのがありました。電算機というのは、見た目や大きさは今のスーパーのレジと同じ感じで、出力がロール紙に印字されるところも似ています。これも簡単なプログラムが組めました。
この部に入って、学園祭のときに相性占いをやったりしていました。先輩たちの書いたプログラムで、生年月日と名前を入れて、中で計算したふりをして、あなたと相手の相性は○%です、というのを印刷して渡す、というような。この占いでみんなが喜ぶことが楽しかったし、自分でも簡単なゲームを組んで思うように動いたときは嬉しかったですね。
で、これにハマって、大学に入学したときに富士通FM-7というマイコン(今のパソコン)を親に買ってもらい、ゲームばかりやっていました。
筑波大の情報学類の実習では、当時のマイコンと比べて、より大規模でパワーのある日立のメインフレームを使っていました。サイズも大きく高価なので、ひとり1台は使えず、多くのユーザーが同時にログインして、CPUやメモリ空間などを割り振って使う「タイムシェアリングシステム(TSS)方式」でしたね。
情報学類以外の学生が使っていた計算機センターでは、三菱Multi16という16bitパソコンを使っていました。その端末を使って、誰が作ったプログラムかはわからないですが、当時のアニメ『超時空要塞マクロス』のヒロイン、リン・ミンメイを、幅広のプリンタ用紙にアスキーアートで打ち出すのが流行っていました。
ゲームと、あと学生仲間との麻雀にもハマって…どちらにしても、大学時代は、あまり勉強しませんでしたってことになるんです……」
そう話して、徳永さんはうなだれる。
とはいえ、黎明期のころからパソコンに親しんでいたことは、のちのち陰に陽に影響してくる。90年代にはパソコン通信を始め、その経験が書店員の仕事やサービスに多くの示唆を与えたのだ。