「物心ついてからは音楽一辺倒で、本もそれほど読まず、どうして書店員になったのか不思議に思うでしょうが、きっかけはあります」。
日野さんは、亜細亜大学法学部に入学する。そこに短期留学プログラムがあった。アメリカ・ワシントン州の提携する大学への派遣留学で、期間は5ヶ月。日本から70人くらいで行き、寮で生活する。現地に日本人スタッフはおらず、授業はすべて英語だった。
「当時そこに、美しいブロンドの先生がいらっしゃいました。歳は8つくらい上だったと思うんですが、ようするに僕は彼女に惚れてしまったんですね。恋は英語を上達させました。今ではすっかり忘れてしまいましたが。最後の1ヶ月になると、もうすぐ帰国だというセンチメンタリズムもあり、先生をデートに誘ったんです。そうしたらなんとOKしてくれて! ドライブに行きました。運転は先生がするというマヌケな話なんですが。
大学があったのはワシントン州でシアトルの次に大きい街であるスポケーンの近く、チニーという小さな街で、先生はショッピングモールの中にある本屋に連れていってくれたんです。とても魅力的な店で、ここで先生は1冊の本を薦めてくれました。原題で『The Giving Tree』(シェル・シルヴァスタイン・著)という本で、日本だと『大きな木』(村上春樹・訳)というタイトルです。ギビングツリーという書名のとおり、人に与え続けることがテーマの絵本なんですが、英語が未熟な僕でも内容にえらく感銘を受けて、帰国したら本屋でバイトしようって思ったんです」。
9月に帰国すると、日野さんはさっそく書店アルバイトの募集を探す。当時の実家が谷津(習志野市)だったため、近隣で見つけたのが船橋駅前のときわ書房。応募してみごと採用され、書店員生活がはじまった。
船橋本店で3年アルバイトとして働き、大学を卒業して、ときわ書房に就職する。1993年、25歳のときだ。
「はじめは雑誌の担当でした。現在はすこし勝手が違いますが、当時は雑誌は毎月の売上げが安定しているから予測が立てやすいジャンルだったんです。世間の情報がダイレクトに取り上げられているので、売り伸ばし方も鍛えられます」。
書店員の仕事で「担当になる」とは、仕入れ担当になることだ。膨大な量の出版物の中から自分の才覚で入荷するものを選び、冊数を決め、並べ方を考える。さらに、棚の乱れた並びを整え、ポップ(本の内容や推しポイントを書いた小さな紙片)をつくるなど、お客さんの目に止まりやすいように工夫をする。それが「棚をつくる」ということだ。
一般的には、取次会社がそれまでの実績(どんな本をどれくらい売ったか)を勘案して、それぞれの書店への出荷数を決める「パターン配本」という形がとられている。だが、その「パターン配本」を見越して、さらに入荷数を増やしたり、配本では入ってこない本を注文したりするのが、書店員の重要な仕事のひとつといえる。
雑誌・文庫・文芸・実用書・学習参考書・コミック・児童書といったジャンルによって、棚をつくる手法は変わってくる。自分の担当が変われば、そのジャンルの傾向と対策を練らねばならない。毎日入荷してくる相当数の新刊を売場に出すことに加え、出版社それぞれの特長を知り、テレビ放映で取り上げられたり映像化されるなどで需要が高まる本をいち早く注文・陳列するなど、日々の仕事は山積みだ。そして本は重い。書店員はかなりの激務である。
日野さんは、書店で働きはじめたからといって本が好きになったわけでもなかった。
「雑誌担当のときも、音楽雑誌やディスクガイドなどには興味をもてるんですけど、あいかわらず読みものはあまり好きじゃない。書店員といえば本好き、本好きといえば文芸書、というイメージからはかけ離れていました。
若い頃は休みの日に他の書店を見に行くということもいっさいなく、ディスクユニオンとタワーレコードを往復して、お金は全部CDやコンサートチケットに使っていました。音楽が最優先事項。主に洋楽です。
10代の頃はローリング・ストーンズやブラックミュージックの良さが理解できなかったんですが、留学中にブルースやソウルに触れて好みが変わりました。大学在学中はストーンズにどっぷりはまり、サークルではコピーバンドもやっていました。バイトを始めてCDも買えるようになったので、過去の名作を買い漁り、追体験で60~70年代ロックを聞きまくりましたね。
でも基本はニューウェイブ、オルタナティブロックが好きなので、90年代にリアルタイムで聞いていたのは、THE STONE ROSES、SUEDE、OASIS、PRIMAL SCREAM、RADIOHEAD、PEARL JAM、そしてMASSIVE ATTACKなどです。THE SMITHSは10代の時に解散しちゃったので追体験です」。
音楽の話になると、日野さんの目が熱を帯びて輝きはじめる。言葉があふれ出る。
「国内だとまずBLANKEY JET CITY。青春そのものでした。他にBOOM BOOM SATELLITES、Buffalo Daughter、ニューエスト・モデル、エレファントカシマシなど。
でも振り返って一番好きなのはBLOODTHIRSTY BUTCHERS!
私にとって、もっとも大事なバンドです。フロントマンだった吉村秀樹氏が亡くなってしまい、いまは事実上の活動停止状態なのですが、彼らの『kocorono』(1996年)こそが、無人島に持っていきたい1枚です。アルバム収録の「7月」という曲、この曲の素晴らしさを共有できない人とは友達にはなれませんね」。
勢いは止まらない。
もちろん野外フェスにも、よく行った。
「サマーソニックは毎年のように行きました。第一回のフジロックにも行きましたよ。Red Hot Chili Peppers目当てで。台風の大雨で帰りのシャトルバスがぜんぜん来なくて、4時間くらいかけて山を下りて始発で帰り、仮眠して15時から仕事しました。なかなか貴重な良い思い出です」。
一方で、ちょっとした転機もあった。
市川FMという地方局からの依頼で、ときわ書房の3人の書店員で、毎週、本のレビューをすることになったのだ。
「このラジオの仕事をきっかけに、本を読むようになりました。番組はあまり長く続かなかったし、終わったらまた読まなくなるんですが、本に対する意識がすこし変わった気がします。阿部和重、重松清、金城一紀などを読み始めました。
そしてこのころから、漫画をぱったり読まなくなりました。それまでもそんなに読んでいたわけではなくて、『北斗の拳』目当てでジャンプを読み始めたのが高校生で、『魁!!男塾』とか『ジョジョの奇妙な冒険』とか、バイオレントなものをよく読んでいました。書店員になってからもアフタヌーンで『寄生獣』や『地雷震』を読んでいたんですが、30歳を過ぎたあたりから読む気がなくなって……自分でも理由がわからないんですが」。
ときわ書房で働いて28年、「書店員としては死んでいた」時期を経て、自覚を強くもって仕事を見つめはじめた今、自分がこの職業に向いていると思うかどうか、聞いてみた。愚問とは感じながらも。
「ふたつの側面があると思うんですね。選書やバイタリティーを発揮するという側面でいうならば、僕は天職として考えたいです。もうひとつ、商売人という側面では向いていない。
たとえば、アイドルの写真集とか、付録つきの女性誌とか、売れるであろうものは必死で手配すべきなんでしょうけど、そこに労力を割くのが苦痛なんです。かなり嫌々やってます……。商売には向いていないですよね。
でも、品揃えやフェア企画のことを考えるときは、収入度外視ではなく、店を存続するために、お客さんに来てもらうために策を練っていて、さすがに道楽でやっているわけじゃない。それに自分の好きなものだけを揃えた世界は、はたして楽しいだろうか、とも考えます。商売の下世話さをもちつつやっていくことに面白さがあって、だから本屋で働いているのかなあと思います」。