詩集を読む夜
詩は難しくて、わからない、
ということを、よく聞きます。
たしかに、僕も、そう思います。
通勤電車で、ページをくっても、くっても、
頭に入ってこない。
わかりかけたと思ったのに、次の行で、
わからなくなる。
でも、その難しさには、一読して
理解するには難しい、ということであって、
その背景には、何をするにしても、
急かされる社会、というものがあります。
スピードや、データ。
そういものと拮抗するために、言葉があるのだし、
文学があり、音楽があり、絵画があり、
詩があるのだと思います。
ゆっくりと、自分のペースで読めば、
詩ほど、豊かなものはありません。
これは、自戒を込めて、言っています。
最近は、金子彰子さんの詩集、
『二月十四日』(龜鳴屋)を読んでいます。
言葉に誘発されて、いろいろなことに
思いをはせるのが、とても愉しい。
通勤電車の中ではなく、夜に、机の上で、読みます。
解説で、井坂洋子さんが書いてらっしゃるように、
「読み手の心に、嵩ばらないで、すっともぐりこめる
可能性を秘めている」
そういった、詩集です。
夏の日を、店を、影を、自らの体を、思い出します。
恋人を、町を、眠りを、食事を、思い出します。
才能も、造本もすばらしい。
ちなみに、僕は、「遠山」という詩が、好きです。
限定214部。
もうすぐ、売り切れだそうです。
めでたいです。
金子さんのブログ
http://d.hatena.ne.jp/Kaneco/
タグ: 読書
『早く家へ帰りたい』
『早く家へ帰りたい』
recommendは、高階 杞一さんの詩集、
『早く家へ帰りたい』。
偕成社さんのホームページには、
「誕生時から重い内臓障害を負っていた息子の
突然の死によって、子どもの生の意味を改めて
ふり返る19編の詩」
とあります。
打ち合わせのときに、デザイナーさんから見せて
いただいて知ったのですが、本当に、すばらしいです。
読みながら、泣いてしまいました。
本を読んで涙するなんて、学生時代以来のことです。
何も言うことはありません。
興味を持たれましたら、ぜひ、お近くの書店でお買い求めください。
ちなみに、タイトルは、サイモン&ガーファンクルの、あの曲です。
本当に、すばらしいです。
文学の旅。
文学の旅。
今度刊行する小説の注釈を、せっせと作っています。
その短編は、ソ連時代のめぐまれない作家が、旅行に来ていた
見知らぬアメリカ人に、出版の融通をしてくれ、と頼む話です。
追いかけていっては、何度も、何度も、頼みます。
火中の栗は拾いたくない、というアメリカ人と、
自分のことしか考えていない、切羽詰まった、才能豊かなロシア人。
おもしろいし、哀しいです。
ロシア人は、会話の中で、ロシアのたくさんの作家の名前を、
滔々と、を引用します。
ドストエフスキー、チェーホフ、ソルジェニーツィン。
ここまでは、わかります。
イサーク・バーベリ、マリーナ・ツヴェターエワ、オシップ・マンデリシュターム。
? ? ?
聞いたことがあるような、ないような、という名前です。
しかし、彼らの名を、図書館の文学辞典で調べると、俄然、読みたくなります。
たとえば、イサーク・バーベリは、要約すると、下記のようになります。
「一八九四 ~ 一九四一。ロシアのユダヤ系作家。
短編の名手であり、多彩な文体で『オデッサ物語』『騎兵隊』などを残した。
スターリンの粛清によって銃殺される」
そして、『騎兵隊』はネット古書店でそんなに高くない値段で、
『オデッサ物語』は新刊(群像社)で、今でも読むことができるのです。
読者というものは、このようにして続いていくのだ、と思います。
その導き人となるのは、必ずしも、現実世界の人間ではないのです。
すばらしきかな、マラマッド
すばらしきかな、マラマッド
めっきり、寒くなりました。
「夏葉社」の看板が指し示すとおり、
冬がとても苦手です。
歩いているときも、必要以上に、
背中が丸まります。
recommend は、マラマッド。
私が大好きな作家です。
過小評価され、その名も忘れかけられている昨今、
柴田元幸先生の翻訳で蘇りました。
アメリカ文学者の井上謙治先生は、
『アメリカ読書ノート』の中で、
マラマッドの言葉を下記のように引用しています。
「文学は人間について語ることによって、人間を尊重し、
ロバート・フロストの詩が『混乱に対する一時的な支え』
であるように、倫理を志向するものである。
芸術は人生を讃え、われわれに基準を与えるのである」
さまざまな意見があるでしょうけれども、私は、古くから続く、
このような文学に対する信頼を忘れまい、と思っています。
寒い冬の夜は、マラマッド。
友だちが増えたような気にもなります。
『四万十日用百貨店』
『四万十日用百貨店』
一昨日の日曜日に、TBSの情熱大陸で、『自遊人』の
岩佐十良さんが特集されていましたけれど、氏の拠点は、
都会の喧騒から離れた、新潟県の南魚沼にありました。
この本の著者である、迫田司さんは、高知県の四万十在住。
そこにあるのは、沈下橋。
天然うなぎ。
野生の鹿。
ああ。
しかし、もともと、四万十の人ではないのです。
デザインを通して、集落に関わり、そこにあるものから、
デザインを日々学んでいるのです。
それは決して美しい自然だけではなく、
酒の席のおじさんの声であり、
「土州勝秀」の腰なたであり、
長年続く神様を迎えるお祭りであり、
薄暗い、夜の路地であり。
そうした生活に基づいたものこそが強いのだ、
と私は思います。
新しいものを創るのではなく、
日々の生活の中から、発見すること。
刺激を受けます。
と同時に、笑みも浮かびます。
ぜひ、ぜひ、読んでみてください。
好著ぜよ。
↑
(蛇足。ただ言いたいだけ)
テクニックはあるが、サッカーが下手な日本人
テクニックはあるが、サッカーが下手な日本人
人並みに、サッカー観戦が好きです。
好きだからこそ、テレビで試合を観ていると、
ああ! とか、もう! とか声をあげてしまいます。
なぜ決められないんだ。
なぜパスを戻すんだ。
モヤモヤがたまります。
なぜそうなるなのか、どうすればこの局面が変わるのか、
もっと言えば、どのような長期的な視野に立てばチームは
こんなミスを犯さずにすむのか、それらを論理的に理解できれば、
このモヤモヤも幾分かは解消されるのかも知れませんが、
語る言葉を知りません。
そこで、この名著です。
昨日読み終えたばかりなのですが、この本は、目からウロコです。
「サッカーを要素還元主義的に細分化せずに、
サッカーをサッカーのままトレーニングする」
この本の骨子は、これです。
つまり、決定力をあげるとか、パスの精度をあげるとか、
トラップを上手くするとか、一対一の勝負をするようメンタルを鍛えるとか、
そうした、部分的な各論には意味がないんだ、と作者は言っています。
サッカーはサッカーをすることで、つまり、サッカーの試合を数多く経験することで、
初めて上手くなるもので、そこが、いや、そこだけが、日本と海外の大きな差なのだ、と。
作者がコーチとして指導したスペインでは、毎週、なんらかの公式戦があります。
試合を通して、少年たちは、サッカーに必要なテクニック、インテリジェンスを
学びます。
加えて、試合に出られない選手が存在しないよう、大所帯のチームは、
チームをいくつかに細分化し、選手を試合に出させます
しかし、日本ではそうではありません。
年に数回の試合のために、彼らはひたすら練習をしますが、彼らには、
試合に出れるかどうかの保証すらないのです。
試合をする国民が多い国と、試合をする国民が少ない国では、どちらが強いのか。
考えるまでもありません。
「要素還元主義的に細分化せずに、○○を○○のまま」
これは、サッカーだけに当てはまらない、素晴らしい見識です。
たとえば、私は大学時代に、恩師から、小説が上手くなりたいなら、
とにかく1本でも小説を多く書ききることだ、と学びました。
技法や、プロットや、描写力などを、個別に磨いても小説は上手くならない。
小説を書ききることで、初めて、小説とはなにかがわかるのだ、と恩師は言っていたのです。
読書も、たぶん、同じです。
とにかく1冊でも多く本を読むことで、本とは何か、読書とは何かが、
頭だけでなく、身体でも理解できるのだと思います。
毎日新聞の『読書世論調査』はおもしろい。
毎日新聞の『読書世論調査』はおもしろい。
活字離れ、活字離れ、と業界ではよく言いますけれど、
それを聞くたびに、ほんとう? と思ってしまいます。
なにか、根拠があるというわけではないのです。
実感として、少なくとも、私が大学生だったころと、
状況はそんなに変わっていない気がしています。
本が好きな人は本を買うし、好きでない人は買わない。
どっちが良いという話ではないけれども、出版社をやっている
人間としては、本をもっと買って、読んでほしい。
願いです。
そのために、何かできることがあればやりたい。
ほんとうです。
最近、古書店で、『読書世論調査30年』(毎日新聞社/1977年刊)
という本に出会い、毎日、少しずつ読んでいます。
毎年、このようなことをやってくれているなんて、ほんと、頭が下がります。
調査規模は、一番多いときで、18,243人。
ちなみに、2009年版だと、2717人(いずれも回答数)。
読書率、一番好きな作家、最近買った本、好きなマンガ家、
などが主な質問項目で、調査は1947年から始まっています。
たとえば、冒頭に話した書籍読書率は、下記のとおりです。
細かくて見にくいですけれども、縦軸が、書籍読書率(%)、横軸が年で、
グラフに投入している数字は、1949年~1976年、それと、2009年です。
(グラフが最後に跳ね上がっているのは、33年も間が空いているからです)
数字で言うと、たとえば、1949年の調査で、書籍を読みますか? との問いに、
大都市(東京23区・大阪市・横浜市・名古屋市・京都市・神戸市)の30.6%が、
小都市(それ以外の市)の28.1%が、町村(郡部)の11.0%が、はい、とこたえています。
それが、1968年になると、それぞれ、62.9%、53.9%、42.1%と上昇しています。
そして、2009年になると、大都市(23区と政令指定都市)の84%、小都市
(人口20万人未満の市)の76%、町村部の74%が、はい、私は書籍を読みます、
とこたえています。
うーん。
活字離れとはやっぱり嘘じゃなかろうか、と思ってしまいます。
そして、さらにおもしろいのが、1日にメディアに使う時間の平均です。
1952年の調査では、アンケートの回答者は、1日あたり、
書籍・雑誌に29分、新聞に36分、ラジオに1時間39分の時間を、
平均して使っています(計2時間44分)。
それが、1968年になると、書籍・雑誌に35分、新聞に32分、ラジオに35分、
テレビに2時間29分(!)に変わります(計4時間11分)。
そして、2009年では、書籍・雑誌に56分、新聞に38分、ラジオに48分、
テレビに3時間01分、インターネットに37分、という調査結果が出ています。
(なんと、平均で、計6時間!!)
まあ、働いている身としては、6時間という数字に実感は湧かないのですけれども、
性別や、年代別で詳しい数字を見てみると、そうかもしれないなあ、という感じも
してきます。
もちろん、これらの数字を鵜呑みにして、どうこうという話ではありません。
なんというか、謙虚に、柔軟に考えよう、と日々思っているのです。
庄野潤三さん。
庄野潤三さん。
21日、戦後を代表する作家である、
庄野潤三さんが亡くなりました。
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「イギリスだったか、アメリカだったか忘れたけど、ひとりの少年があひるの卵を見つけたの」
小学校二年生になった男の子が、風呂の中で父親に話している。
「どこで見つけたんだ」
「知らない」
「どこで見つけたんだろう。野原?」
「うん、そう」
「そばに小川が流れているようなところかな」
「そうかも知れない。その少年はね、何とかしてあひるの卵をかえそうとして自分のからだに卵をくくりつけたの」
「どの辺に?」
「この変に」
子供は自分のお腹の横に、両方の手を持って行って、大体の位置を父親に示した。
それは自分で考えたことなのだ。
1960年発表 『静物』より
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私は庄野さんのこうした何気ない描写が大好きでした。
子供が子供のままであるということ。
家庭を守ろうということ。
どこにでもある家族の風景は、作家にとって、
かけがえのない家族の風景でもありました。
読むたびに、私自身の、食卓でのあれこれや、
身近な風景を思い出します。
「珠玉」という言葉が似合う作品が、数多くあります。
一読者として、ありがとうございました、と言いたいです。
庄野さん、ありがとうございました。
『スローフード大全』
少しだけ携わらせていただきましたので、宣伝です。
スローフードって。
ああ、ファーストフードの対義語で、ゆっくり食事を楽しもう、
って、あの、あれね!
たしかに、そうなんです。
でも、それだけではないんです。
言うならば、食の多様性とでもいいましょうか。
「ファーストフード」に代表される画一的な食生活だけじゃ、いかん。
私の理解では、つまり、そういうことです。
日本はどこへ行っても同じ景色ばかりだ。
よく聞く話です。
駅前にレンタカー屋、国道に出ると左にハンバーガー屋、右に格安衣料店、
まっすぐ走ると、家電量販店があり、ビデオレンタル店があり、青と黄色が目立つ、
なんとかOFFがある。
皮肉なことに、それは、私にとっては、落ち着く景色でもあります。
よく見知った風景と、よく知っている商品。
それと、納得できる価格。
けれども、それは、一方で危機でもあります。
均一な文化は、往々にして、巨額のお金によって成り立っているからです。
そして、もちろん、その背後には、消えていくたくさんの小さなお店があります。
『スローフード大全』が詳述しているのは、地域経済、伝統、生物多様性、食の喜び、
といった事柄です。
均一な食文化は、均一な味覚によって、ますます均一化していく。
それに断固として抗議するというのではなく、食をもっとよく知ることで、
多種多様な、豊かな食の世界を再発見し、保存する。
異議なしです。
フルカラーの大きな本です。
類書のなかでは、ダントツの情報量を誇ります。
そして、写真もきれいです。
ジュンク堂、紀伊国屋さんなどで、ぜひ!!
あっ!
最後に一言だけ。
あのジョン・アーヴィング氏が、寄稿しています!
レコード寄席覚え書き「春」
レコード寄席覚え書き「春」。
敬愛する円盤の店主、田口さんの本です。
「夏」も出ています。
知る人ぞ知る、というわけではなく、
いまとなってはだれも知らない
昭和のレコードについてのエッセイです。
なんでこんなもの、つくったんだろ。
そんな音の記録が100枚。
考えさせられるのは、どこに行きつくこともない多様性、という言葉です。
なにかと比して「多様」というのではなく、ただただ、「多様」。
他の人と違うことに価値があるのではなくて。
そんなのは、やっぱり、当たり前なわけで。
「世の中不景気じゃなくて、嫉妬にまみれてせこくなってるだけだと思う」。
ほんと、そのとおりだと思います。
奇妙奇天烈なレコードの数々、そうとうおもしろいです。
私、中央線のなかで、何度も噴き出してしまいました。
お買い求めは、円盤まで。
いろんなCDも売っています。