『古本と肴 マーブル』の店主、蓑田沙希さんは、1981年北海道滝川市に生まれた。5歳まで暮らし、小学校に入るときに札幌市に引っ越してくる。
小学校時代は、公文をはじめ、英会話や塾にも通い、勉強することが当たり前と感じていたという。「当時は頭が良かったんです」と笑って話す。
「本もよく読みました。何千冊も本があるような家ではなかったんですが、わたしにはたくさん買ってくれました。母が教育熱心で、なぜか小学校に入るくらいの頃に島崎藤村の『初恋』を暗唱させられたんですよ。
まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり……」
蓑田さんはすらすらと早口で読み上げていく。
「なぜ『初恋』だったのかはわからないんですけど、意味もよくわからないのに七五調のリズムでとりあえず覚えてしまうんですね。でも当時、積極的に読んでいたのは漫画でした。低学年のときに『シティハンター』を読んでいたら、まだ早いと母に隠された覚えがあります。わたしには手が届かないタンスの上とかに置かれて。そもそもどうやって手に入れたのか覚えてないんですが。漫画禁止というわけではなくて、通っていた英会話教室のビルにあった本屋さんで、吉田戦車の『伝染るんです。』を買ってもらったりもしました。子どもながらに、これは買ってもらえない本なのでは……と恐る恐る言ったんですけど、一応買ってくれました」
小学校のとき、家が近所で同じ学校に通っていた、あやちゃんと友達になった。蓑田さんにとって現在に至るまで、彼女の存在はとてつもなく大きい。小学5年生のとき、ユニコーンを教えてくれたのは、あやちゃんだ。
「ユニコーンは自分にとって、なんか、すごい新しいものだったんですね。世の中をなめてるわけじゃないけど、ちょっと俯瞰で見ている感じで、ユーモアもある。解散したころの民生ってけっこう髪が長かったりして、小学生にはどきどきしづらい風貌だったけど、『雪が降る街』のPVは、いくえみ綾の漫画に出てくる人みたいで、なんてかっこいいんだ!って思って、ほんと好きでした。『PATi PATi』とか『B-PASS』とかアイドル音楽雑誌を買い漁って、その切り抜きをスクラップしてました」
蓑田さんは、力強くユニコーンを、奥田民生を語る。ときに声を震わせ、陶然としながら。思わず聞き入る。
1987年にデビューしたユニコーンは、1993年9月、蓑田さんが小学6年生のときに解散する。
「この世の終わりだと思いました。明日からどうしていけばいいんだろうって。当時は子どもで大人の事情とかわからないので途方に暮れたんですけど、翌年に民生がソロ活動を始めて『愛のために』が出て、わあああって……中学1年のときに自分でチケットをとって北海道厚生年金会館のソロ初ライブに行きました。けっこう後ろの席でしたけど、それでもそこに行ったっていうことが、かなり大きいというか」
バンド解散後、メンバーは各々ソロ活動をしていたが、2009年に再結成、現在に至る。
「ずっと好きですね。自分のアイデンティティのなかで欠かせない存在なので、これからも好きじゃなくなるっていうことは、たぶんないと思います。再結成してからは、民生がアベ(阿部義晴・現ABEDON)の曲を歌うっていうのがやっぱり、それはぐっとくるものがある。人の曲を歌う奥田民生っていいじゃないですか。自作のはもちろんいいんですけど、そうじゃないのも見たい。なにより、みんなで楽しそうにしてるのがいいなって」
再結成してからはとくに、5人のメンバーが担当を固定せず、縦横無尽に作詞・作曲・ボーカルをつとめている。再結成後初のシングル『WAO!』は、作詞・作曲・メインボーカルを阿部義晴がつとめ、奥田民生はカウベルを打ち鳴らし、5人が心の底から楽しんでいるPVが印象的だ。バンドが再始動した歓喜と高揚が伝わってくる。
「ユニコーンファンになっていなかったら、たぶんぜんぜん違う人生を歩んでいたと思う」と蓑田さんは話す。
「性格も違ったと思うんです。小中学生のわりと多感な時期にユニコーンを好きになったことで、けっこうしんどいことがあったとしても、それを俯瞰で見る術を知ったというか。あまり感傷的にならないで飄々としているほうがかっこいいとか、ユーモアを忘れずに、しんどかったとしても見方によってはおもしろいんじゃないかとか、そういうことを考えるようになりました」
その後、奥田民生から派生してムーンライダーズ、カーネーションといったバンドを知り、ファンになっていく。蓑田さんにとって、ユニコーンは「好きな音楽」というだけでなく、自分の人格形成に深く関わっている存在なのだ。
「わたしはいま40歳なんですが、ふとしたときに、民生は40歳のとき何やってたんだろうって考えるんです。このときと同じ年か、この歌を歌ってたときかって確認する。そういうくらいには好きな存在です」