
いちばんはじめに好きになったプロレスラーは誰ですか、と伊野尾さんに聞くと「天龍源一郎です。福井の英雄です」と即答する。
天龍源一郎。1950年、福井県勝山市生まれ。大相撲力士を経て、1976年に全日本プロレスに入団。その4年前に入団していたジャンボ鶴田との「鶴龍コンビ」として活躍した。相手の技から逃げることなく、真正面から受け切る愚直なファイトスタイルを長く貫いた。
「僕が子どものときに観ていた全日本プロレス(全日)は、荒くれ者のスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディと、正統派のベビーフェイスであるザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクの兄弟タッグ)。メインは外国人だったんです。
それがだんだん変わってきて日本人が主流になり、全日の創設者であるジャイアント馬場さんは一歩引いてくる。それで、ジャンボ鶴田&天龍源一郎VS長州力&谷津嘉章などが人気になるんだけど、長州もブロディも他団体にいっちゃって、試合が組めなくなってくる。そうなったときに、天龍が鶴田の下にはいたくないって反目に回るんです。ずっと一緒にタッグを組んで、師弟みたいに教わる立場の天龍が、そんなこと言っていいんだって、びっくりした。80年代後半の話です」
ジャンボ鶴田は体格、パワー、テクニック、センスなどを兼ね備えた最強のプロレスラーだったが、あくまでプロレスは仕事である、という冷めた姿勢だったことは周囲にも観客にも伝わっていた。要は強すぎたのだ。
「何もないところから何かを獲得しようとする、上がっていく人に、みんな熱中するじゃないですか。当時中学生だったこともあって、ほとんど何も持っていなかった天龍が何かをつかもうとしているところに惹かれたんです。それでファンになった。鶴田は強すぎるがゆえに、本気でやりすぎないような試合をしていたところがあって、天龍はそれを察知していたんでしょうね。胸にチョップと見せかけて、顔面を張ったりして怒らせるわけですよ。すると鶴田もカッとなる。観てるほうも、これはいつもと違うぞってなって盛り上がるんです」
天龍は試合後のインタビューでも手を抜かなかった。
「いちいちエスプリがきいてるんです。馬場さんとの試合で勝ったときに『この1勝は東京ドームより重い』とか、トラッシュトークがすごくうまい。それまで、そういう気の利いたおもしろいことを言う人はあんまりいなかったんです。馬場や鶴田のコメントは行儀のいい、スポーツ選手みたいなコメントだったし」
1989年11月29日、世界最強タッグ決定リーグ戦が札幌で行われ、ジャイアント馬場&ラッシャー木村VSスタン・ハンセン&天龍源一郎の試合で、天龍が自身の決め技であるパワーボムで馬場から3カウントを奪い勝利。日本人選手が馬場からピンフォール(抑え込み)を奪ったのは初のことだった。当日、東京では新興の人気団体UWFが初の東京ドーム大会を開催していて、それを意識しての「この1勝は東京ドームより重い」だった。この一言に、プロレスの歴史が凝縮されている。
「初めて見に行った試合は、中学2年の春休み、武道館で開催された全日本プロレスの大会です。メインイベントが、ジャンボ鶴田VSブルーザー・ブロディ、セミファイナルが天龍源一郎VSスタン・ハンセンでした。いい試合だった。
この数年前にブロディは全日本から新日本に移籍したけど契約不履行でクビになるんですね。1年くらい謹慎期間があって、馬場さんがそろそろいいだろうって呼び戻すんです。ブロディはトラブルを起こして試合をしていなかった。どれくらい強さが戻ってるのかもわからない。そういう評価もあって鶴田が勝つだろうと思ってたら、ブロディが勝ったんですよ。会場はもう大盛り上がりでした。やべえ…すげえおもしろいって思ったんです」
この大会の4カ月後に、ブロディは急逝。勝利に盛り上がったときには予想もしない未来が待ち受けていた。だからこそ、その日そのときにしか観られないライブは、会場に居て目撃、体験することに意味がある。
「当時の観客は、よく言えばピュアで、悪く言えばすぐ怒ってものを投げたりするような人たちでした。波乱の結果だったけど、鶴田がチャンピオンだとおもしろくないっていう潜在意識は共有されていて、出戻りのブロディが勝っちゃうことで、みんな沸きに沸く。ブロディコールとか、思い思いに叫んでるのが屋内で反響するのがすごかった。多くの人はコンサートでそれを体感すると思うんですが、僕の場合はその初めてがプロレスでした」
伊野尾さんは中学3年の冬の終わり、同級生のたけし君に導かれて新たな世界に出合う。
「たけし君に、FMWっていう新しい団体ができて小中学生は500円で観られるらしいから行こうぜって誘われたんです。最初に行ったのが有刺鉄線デスマッチでした。プロレスのリングの四方に張ってあるのがロープじゃなくて有刺鉄線。柵の上の方に、絶対入ってくるなよって張り巡らせている鉄のあれを、リングに張るってどういうこと? って。ふつうに痛い痛い痛いってなるわけで」
FMWとは、1989年7月、大仁田厚によって設立されたプロレス団体だ。全日本プロレスや新日本プロレスといったメジャー団体ではなくインディー団体の位置づけで、ボクシングやムエタイ、空手などプロレス以外の選手が参戦する異種格闘技の要素があった。なかでも注目を浴びたのがデスマッチ。有刺鉄線、電流爆破など、さまざまなデスマッチ方式を日本で初めて取り入れた。
「全日でもたまに流血することはあったけど、それはブッチャーが凶器を使うとかの“反則”の範疇ですからね。有刺鉄線に人の体を押しつけるとか、まったく趣旨が違いますよ。そうした試合はともかく、大仁田の本質は試合後の演説にあったと思うんです。中三の伊野尾少年はこの演説にやられました。アジテーションというものに触れた最初の機会です」
思春期に触れたアジテーションは、深く傷を残す。
「FMW設立前、大仁田は一度引退してプロレス界から消えていたんだけど、やはりプロレスをやりたい、やり続けたいということを訴えるんです。涙ながらに、僕にプロレスをやらせてくださいって。あのときはピュアさが絶対あったはずなんです。いくぶん計算も混じっていたかもしれないけど。赤の他人の、しかも目の前で、泣きながら大人から何かを訴えられるなんて、あんまり体験しないじゃないですか。それを目の当たりにしたもんだから心打たれて、観ないといけないなって」
まさに、何ももたない人が何かを獲得していこうとする、そのストーリーだった。
「当時、ヤジもひどかったです。後楽園ホールの2階バルコニーは立見扱いでチケットが安いから、いっちょかみのめんどくさいファンが集まるんですけど、そこから飛んできた、からかうようなヤジに対して『一生懸命やってんだよ!!』ってリングにマイクを叩きつけると、大仁田コールが起こる“大仁田劇場”が始まったりするんですね。虐げられているからこそ応援するという風潮ができて、だんだん宗教化していくわけです」
大仁田は、その独特のカリスマ性でだんだんメジャー化していき、信者的な人が増えていった。すると、もう自分が応援しなくてもいいかなと感じ始めたという。
「プロレスと自分の人生を結びつけて考えてしまうことはよくある」と伊野尾さんは話す。「14〜15歳くらいのときに好きになったものは一生続くっていうことがあると思うんですけど、自分にはよく当てはまってるなと思います」。
伊野尾さんにとっては、それはプロレスと、野球だった。