高校生になった加賀谷敦さんはバンドを組んだ。メンバーは同じ高校の4人、加賀谷さんはギターと作曲担当だったという。歌詞は他のメンバーが担当していたんですか? と聞くと
「……歌詞も書いてました。ただもうあまりにもひどい歌詞だったので、質問されなかったら言わないでおこうと思ってました……」
加賀谷さんは視線をはずして、すこしうつむく。
「やばいんです。実家のどこかに歌詞を書いたノートがあるはずなんですが、自分の目が光っているうちに処分しておかないと……。当時、授業をろくに聞かないで、いろいろ歌詞を考えてノートに書いている学生でした。中途半端に文学をかじっていたので、その世界をどう表現できるか、一生懸命考えていたんです」
まずコードで曲をつくり、そこに歌詞とメロディをのせていく作曲方法だった。
「人生で初めて自分で見つけた打ち込めるものだったので、かなり力が入っていたと思います。ライブハウスにデモテープを持っていったり、音楽のSNSの『マイスペース』に自分たちのバンドページをつくって曲を載せたりしてました」
ここで気になるのは、バンド名だ。
「いやいやいやそれはだめです。なんかもうすごく真剣に名前つけたくせに、今となるとどうしようもなく恥ずかしい。アルファベットです、とだけ……言っておきます」
スタジオでレコーディングをするなど、かなり本格的な活動をしていたが、2年半ほどで解散してしまう。
「わたしが周りが見えなくなっちゃったんですね。方向を強引に決めていってしまったり、音づくりに細かくなったり。ほんとうによくない。メンバーに直接なにかを言われたことはなかったんですけど、きっと思うことはみんなあったはずです。申しわけないことをしたと思っています。そうこうしているうちにベースから辞めたいと申し出があって、それならばと解散しました。学園祭とか、校内で演奏することはしなかったんです。俺たちの音楽がわかるわけない、なんてひどい決めつけをしていたんですよ。本当は音楽を通じて人から認められたかったということもあっただろうに、自分から予防線を張っていて、もうめちゃくちゃイタいですよね」
自らのバンドは解散したものの、当時は多くの音楽を聴いた。
「youtubeで海外のバンドやアーティストを聴きあさって、いいと思ったものをメモして、放課後ディスクユニオンに行ってCDを探したりしました。とくにレディオヘッドにすごいはまりました。正直、きっかけはかっこつけなんです。こむずかしいし、よくわかんないんだけど、まずは何となく雰囲気に惹かれて。それにそのバンドが好きだと、まるで自分まで同化したような気分になれる気がして。でも、頑張って聴いていくうちに不思議とだんだんはまっていくんですよね。ほんとうにいいなって思えるようになってきたんです」
バンド活動していたときと変わらず、解散しても本だけは読んでいた。
「太宰はあいかわらず読んでいましたが、三島由紀夫や大江健三郎、海外だとカポーティ、サリンジャーとか、有名なところをひととおり読んでみました。ブックオフや、神保町の古本屋さんの外の百円均一で探したりして。バンド活動と同様に、読書においてもイタい方向に行ったことを覚えています。電車で通学しているとき三島の新潮文庫のやつを周囲に見えるように読んだり、制服のポケットにその文庫を入れてちょっと得意になったり。いま思うと、かっこつけから入っていたことが多いです。全然かっこよくないんですけど、当人は真剣という」
この世界は俺のもの。俺はおまえらとはちがう。そういう若さ由来の全能感は時を経て、ときに浅く、ときに深く、心をえぐってくる。だいじなのは、うまく昇華して成仏させられるかどうかだ。
「いまこうやって話していると、中高時代は音楽と本によって生かされていた感がありますね。こういう環境に恵まれたおかげで、友達がいなくてしんどかった時期や、周りと違うことをしていた時期もどうにか生き抜くことができた。音楽とか本を深掘りしていくことで自分をたもっていられたのかなと。恥ずかしくてたまらないことも多々ありましたが、それもいまとなれば肯定できます」
中学時代、人との交わりに苦しんだ時期を経て、高校時代はその苦しみからすこし解放されつつはあったという。
「ちょっと仮面をかぶりながらも、折り合いのつけ方のようなものを自然と覚えていった時期だったのかもしれません。でもたぶん、どう思われるかということばっかり気にしていたり、虚勢を張ったりしたところもまだまだあったせいか、心からの友だちはいなかった。文学について話せる人もいなかったんですけど、大学に入ってからは不思議と共有できる人が一気に広がったんです」
加賀谷さんが大学に入学したのは、2011年4月のことだ。