第59回 馬込文士村に店を開く 〜加賀谷敦さんの話(1)

 JR京浜東北線の大森駅に降りて、東京湾を背にした西口から街に出ると、にぎやかな商店街が続く。山王口の交差点を左折するとジャーマン通り。ゆるやかな起伏がある道を10分ほど歩くと、あんず文庫がある。店主の加賀谷敦さんは、2019年9月、26歳のときにこの店を開いた。古書店であり、5席ほどのカウンターがある喫茶とバーでもある。

 

 一帯は、かつて「馬込文士村」とよばれ、大正末期から昭和初期にかけて尾崎士郎、宇野千代、室生犀星、萩原朔太郎など、作家や詩人、画家が住み、交流を深めていた地域だ。関東大震災を機に、まだ田園地帯だった旧馬込村周辺に文化人たちが移り住んできたのがはじまりといわれる。戦後には山本有三や三島由紀夫も居を構えていた。

 あんず文庫の近くには、尾崎士郎が晩年を過ごした家を復元した尾崎士郎記念館があるほか、周辺には作家の旧居跡が点在している。

 加賀谷さんは、この場所で店を開きたかった。

 

「最初は青森で店をやろうと思っていました。でもやっぱり自分が育った東京にしようかと思い始めていたとき、実家の本棚にあった室生犀星の詩集が目に入ったんです。たぶん大学生のときに買ったはずなんですが、そのときはあんまり刺さらなくて。でもたまたま手にしたタイミングがよかったのか、そのなかの一篇がはまりました」

 

 室生犀星の『愛の詩集』のなかの一篇、「小景異情 その二」。

ーーふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの

 とはじまる詩が、当時の心境にはまったという。

 

「気になって犀星のことを調べてみると、馬込文士村の一員ということを知りました。この山王・馬込界隈は、わたし自身ゆかりがあるわけではないんですが、そのときの自分にとって店をやるきっかけになったんです。以前から、作家やアーティストが集まることによる場所の力学というか、そこに生まれるコミュニティのような文化に興味があって、店をやるんだったらそういう場所に関われたらおもしろいだろうなと思ってました」

 

 馬込文士村とよばれた地域は、現在ではJR大森駅、都営浅草線馬込駅、西馬込駅を最寄りとするエリアだ。住所では、北馬込、中馬込、西馬込、南馬込、東馬込、山王とかなり広い。地域の不動産屋さんに希望の家賃と広さを伝えたところ、その条件ではここしかない、と現店舗を紹介され、加賀谷さんは内見して即決した。

 

「開店準備をしていると、街行く人から『戻ってきたんですか?』ってよく言われたんですね。スケルトンで入ったので知らなかったんですけど、この場所はもともと天誠書林という古本屋だったんです。不動産屋さんもその間に変わったのか、そのことを知らなくて。天誠書林さんの後も2軒、古本屋が入って、いまこの店になってるんです」

 

 偶然というには、あまりにもできすぎた話だ。北向きの物件で、店頭の本が日焼けしないため古書店に向いているとはいえるが、古書店以外でも選択肢はありそうに思える。

 そして加賀谷さんは、1冊の本を見せてくれた。

 

「わたしがこの本を手にしたのにも、ちょっとしたエピソードがあるんです。うちが開店したばかりのころ定休日に作業していたら、明かりが漏れていたのか、下ろしていたシャッターをたたく音がして、おーいって声がするんですね。身構えて出たら、男性が立っていて、関口ですって名乗って。『昔日の客』の関口直人さんでした」

 

 かつて大森に「山王書房」という古書店があった。現在の「あんず文庫」から歩いて20分ほどのところだ。馬込文士村があった地帯にあり、店主の関口良雄さんは尾崎士郎をはじめ、上林暁など多くの作家たちと親交を深めたが、1977年に逝去。だが2019年、同じ場所に、息子の関口直人さんが「昔日の客」というカフェを開いた。店名は、良雄さんが遺した随筆集の書名からだ。

 

「天誠書林の店主だった和久田誠男さんは、関口良雄さんをとても慕っていらっしゃったんですね。直人さんは、うちが開店したのを知って来てくれて、そこから仲良くしていただいてるんです。『昔日の客』に初めてうかがったときに、直人さんの奥様からいただいたのがこの『東京古本とコーヒー巡り』(交通新聞社刊)。2003年発行の本で、表紙の写真が天誠書林なんですよ」

「2003年……わたしは10歳でサッカーボールを追いかけていたころです」と加賀谷さんは笑う。天誠書林が閉店したのは、加賀谷さんが中学生くらいのときだそうで、いずれにしても将来、同じ場所で同じ業種の店を開くことになるとは思ってもいない。だが、何かに引き寄せられるようにして、加賀谷さんはこの地にやってきた。

 

「わたしは古書組合に入っていないので、店の本はすべてお客さんからの買い取りです。天誠書林さんの値札が付いた本を売りに来てくださる方もいるんですよ。年齢に関わらず、本に親しみがある人が多く住んでいることを実感します」

 

屋敷直子 Naoko Yashiki

1971年福井県生まれ。2005年よりライター。 著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。