エッセイ(1)
今週末、創業以来お世話になっている、
吉祥寺書店員の買い「吉っ読」のイベントに参加します。
昨年、「吉っ読」のブックレットにて、文章を書いていたので、
転載いたします。
「吉っ読」の人たち
仕事に飽きたら、本屋に行っている。リブロが一番近いので、リブロによく行く。
ルーエにも行く。ジュンク堂にも行く。ブックファーストにも行く。啓文堂にも行く。
紀伊國屋にも行く。百年にも行く。さんかくにも行く。もちろん、よみた屋にも、
バサラブックスにも、藤井書店にも、外口書店にも、古本センターにも、ブックオフにも、
全部行く。たいてい、買わないのである。事業を始めたばかりだから、お金がないのである。
背を眺めているだけで、満足している。なんだか人に会ったような、満ち足りた気分になるのだ。
それも、立派な人である。僕が一方的に好意を持つ、そして、少ししゃべりかけづらいような、
立派な人である。人懐っこい本は、たいてい、危ない。それは人と同じである。出会ったその日に、
なんでも相談にのるよ、などという人間に限って、心がない。相談にのってくれたとしても、せいぜい、
半月である。
本とは、おおよそ、そういうものだ。本を買い求めたならば、しかるべき敬意を持って、ゆっくりと、
注意深く、読まなければならない。本が自動的に何かを与えてくれるというのが、そもそもの間違いで、
社会の時間とは異なる、自分の時間で、ゆっくりと向きあうからこそ、本の豊かさが生まれるのだ。
どんなにいい本だって、あわてて読んだら、その価値はゼロである。本をあわてて読まきゃいけない
としたら、それは貧しい社会だということである。
しかし、あんまりにもしゃべりかけにくい、いばった本もいやである。何をされたわけでもないのに、
ムカムカと腹が立ってくる。そこの加減が、とてもむずかしい。これは、なんというか、本をつくるときの、
小社の気構えのようなものでもある。
書店を出ると、近くのマクドナルドで、シェイクなどを買って飲む。吉祥寺といえば、サトウのメンチカツ
なのだが、僕は胃が弱いので、ああいったものは、あまり食べられないのである。
たまに、道端で、「島田さん」と、声をかけられることもある。声をかけてもらうと、とても嬉しい。自分が
吉祥寺の住人だと認められているように思えて、気味が悪いくらい、顔がにやけてしまう。にやけたまま、
長い間、しゃべっている。吉祥寺は人が多いので、通行人の邪魔になっている。
僕は、吉祥寺という町が、とても好きである。たくさんの人が行き交うのに、どこか、のんびりとしている。
それは、本屋が多いことと、あながち無関係ではないだろう。
さらに言えば、「吉っ読」の人々が言うように、「吉祥寺という街全体を巨大な総合書店と見立て」ることも、
可能である。だとしたら、ここは、なんとすばらしい書店なんだろうと思う。
ちなみに、僕は、ずっと、「吉っ読」のことを「きちっどく」と読んでいた。ずいぶん言いにくい名前だなあ、
と思っていた。これは、僕がひとりで仕事をしていたころの話である。
小社はいわゆるひとり出版社であるが、「吉っ読」の人たちと出会って、今は、そんな気持ちがあまり
していないのである。