現在、蓑田沙希さんは『古本と肴 マーブル』の店主をやりつつ、フリーランスで編集と校正の仕事も請け負っている。2008年から10年間、店を始める直前まで勤めていた「日本レキシコ」という編集プロダクションとは、辞めてからも仕事のやりとりがある。
「日本レキシコは、辞書や事典、学習参考書などの編集プロダクションで、在職中は、小中高の国語関係の教材の編集、校正をやることが多かったです。フリーになってからは、一般書の仕事もやってます」
「日本レキシコ」では、教材の編集のほかにも、辞典の改訂も担当した。とても緻密な仕事だ。根気と正確さが必要とされるだろう。
「緻密……そうですね。時間をかけて、たくさんのものを整理していかなくてはならない仕事です。わたしが担当したのは、漢字辞典の第二版で、3年くらいかかりました。版元の担当者さんと、うちの会社が2〜3人、あとは組版所、印刷所と7〜8人でチームになって進めていきます。監修の先生がもちろんいらっしゃいますし、外部に原稿をお願いすることもありますが、進行管理や項目選定などは社内でこつこつと。あと版元の担当者さんがチェックを行う流れですね」
イチから新たな辞典をつくるとなれば、人数も時間ももっとかかるが、改訂であればこのくらいの人数で進めていくこともあるという。
「何回も読むので、骨子がわかればそれほど膨大なことではないです。でも根詰めてやってると、明らかに区別すべきものが混同しているのを発見してしまうことはあります。そういうときは危ないから、よくよく確認しないといけません。まずそんなことは起こらないだろうという誤りのほうが、意外と気がつきにくく、こわいものです。
わたしは漢字辞典が好きなんです。日本語を専門に学んだわけではないので、それほど知識があるわけではないんですが、同じ字種だけど字形が違うとか、異体字とか、そういうのがけっこう好き。漢字はもうすでにあるもので、部首の分類の仕方とかいろいろな説があるわけです。監修の先生によって特色はありますが、等しく必要な情報が載り、きれいに整列している。その秩序だったところが、ぐっときます」
入社したきっかけは、たまたまそのとき求人していたからだった。だが仕事をやってみて感じたのは、改訂の仕事が好きということだ。
「編集者って、自分の企画した本を出すのが喜びという、そういう人が向いているんだと思っていたんですけど、わたしはそのタイプじゃない。埋もれてしまっていたものが、自分が仕事をすることによって、また役割を得て世の中に出る、というようなことがすごく好きなんですね。
それって古本屋の仕事も同じだなと思ったんです。読まれていなかった本が、自分を通過して、また誰かのところへ行く、世の中に出ていく。これは自分の中で発見でした。なぜこれが好きなのか、なぜ古本屋を始めようと思ったのか、いつから好きだったのか……いろいろわからないのになんでやってるんだろうって考えたときに、これだ! って気づいたんですよね」
お店の棚には、蓑田さんの蔵書と、お客さんから買い取りをした本が並んでいる。買い取りでは、それほどジャンルは選んでいない。
「店に並べる本は、あまり新しくないものを置いています。それほど厳密ではないですが、いま新刊書店さんで手に入りにくいものを優先してる。あとは、ここに来てくれる人が読んでくれそうなもの。最近は、社会学的な本とか、専門書でも一般の人が読んでもおもしろそうな本とか、そういうのがあるといいのかなと思っています。文学もあまり減りすぎないでほしいので、そのバランスを考えますね」
蓑田さんのお話を聞いてから改めて棚を見ると、どこか蓑田さん自身の本棚のようにも見えてくる。いちばん上の棚に並ぶ埴谷雄高の存在感が大きく見えるからかもしれない。
「わたしはあまり歴史や自然科学が強くないんですが、自分では読んだことがないような本でも、おもしろそうだったら置きます。年齢性別を問わないような本を、わりと心がけているかもしれません。これを言うと身も蓋もない感じなんですけど、おしゃれ過ぎないようにっていうことは、けっこう意識してます。そもそも、そんな棚はつくれないですけど。古本におしゃれも何もないですが、ともすると見栄えがいい本も置きたくなっちゃう。でもそれは一部分でいいかなって」
くわえて、自身が手に取ったときの感覚もだいじにしている。
「人に読まれたなっていう感じの本を置きたいですね。読まないまま売ったんじゃなくて、ちゃんとしっかり読まれた本。これはもう、感覚なんですけど。でも、どんなに積ん読だったとしても、30〜40年経って、今売ろうと思ったっていうことは何かしら思い入れがあって本棚に置いていたのかなと思う本もありますよね。それはそれで、その人に寄り添ってきたものではあるので」
蓑田さんは、ひと息ついて、言葉を選びながら続ける。
「女性店主っぽくない棚をつくりたいのかもしれないです。そう言うと逆に意識してるみたいに思われるかもなんですが。そのほうが間口が広くなるように思うんですよね。20代の女の子がガーリーな本ばかり読むわけではないですが、その逆は、やはり興味がないと手に取らないんじゃないか。だから、誰が見ても1冊は手に取ってみたい本がある棚をつくりたいんです。
自分自身は、店主さんの色が強い店に行くのが苦手なんです。雑多なもののほうが好みだし、コンセプトがあっても、その枠を越えたおもしろさはないじゃないですか。わたしが考えていることなんて、すごく狭い範疇なので、わたしが決めたらもったいないと思うんですよね。人に教えてもらったり、人それぞれの“おもしろい”が衝突する場を目指したいんです」
コロナ禍で店を閉めていたころ、店がどんどんプライベートスペースのようになってしまって、気持ちがくさくさしてしまったという。店を開けて、お客さんが来て帰っていくと、新しい空気の流れが生まれる。その流れがないと、けっこうしんどいということに気づいた。
蓑田さんがつくる酒の肴はどれも、一品一品がていねいにつくられていて、思わぬ素材の組み合わせが楽しい。それをさらに数品盛り合わせることで、隣り合う料理の味が混ざって、また別の世界が生まれる。それはどこか、本棚に似ている。
本の改訂が古書店の仕事につながり、酒と肴につながり、それらを求めて人が集まってそれぞれの興味と思考が衝突する。すべてが無理なく成り立ち、支え合っている。