『移動図書館ひまわり号』について

文字どおり四七の都道府県を取材してまわったのは、二〇一三年のことだ。北海道の稚内から沖縄県の石垣島まで旅してまわり、その都道府県にある町の本屋さんを訪ねた。

町の本屋さんはいま、とても苦しい状況にある。人口の減少、町の空洞化、スマートフォンという外来種。いろんな原因が複合的に重なりあって、町の本屋さんの売上は下がり続けている。

東京で電車に乗っていても、みなスマートフォンの画面を真剣に見つめ、指でなにやらいじくっている。ぼくだって、ときどき、そうなのだ。ツイッターを眺め、ニュースをチェックし、家族や友人たちにメールを送る。あっという間に、三〇分も経っている。本を読む時間が、どんどん減っている。

スマートフォンに表示される言葉と、本に載っている言葉は、ずいぶんと違うように感じる。本に載っているような言葉がスマートフォンに表示される場合もあるし、スマートフォンに表示されている言葉が本になっていることもあるけれど、はたしてこの二つの言葉の出自は同じなのだろうか、と懐疑的になることのほうが多い。

スマートフォンの言葉は軽い。なぜ軽いのか。それはいつでも発言できるし、削除できるし、つまり書き換え可能な言葉だからだ。すぐに弁明できる言葉だからだ。友人たちとの間でだけ流通する言葉だからだ。匿名だからだ。

それだけではない。サイトへのアクセスを増やすことがそのまま利益につながるような人たちが、著作権を無視して、あることないことをホームページやブログに書いたり、だれかの文章をそのままコピー&ペーストをしたりしている。彼らの目的は、アクセスを増やすことであるから、その内容はどんどん過激になる。暴言。暴露。裸体。死体。近年イスラム国が影響力を爆発的に高めたのは、彼らがインターネット上のマーケティングに長けていたからだ。

これらの言葉にたいして、本の言葉は、いかにも重い。ニュース性も、即効性もない。長い時間をかけてひとりの作家が書いたものに、編集者が意見をする。作家は書き直す。校正者が校正をする。彼らは何度も何度もゲラをやりとりし、確認し、デザイナーがデザインをして、ようやく印刷所に入稿する。それから二~四週間で本ができる。企画構想から一〇年などというのは、決して珍しい話ではない。

そうしてできあがった本は、なにかを伝えるけれども、その大切ななにかは、優れたものであればあるほど、一言では言い表せない場合が多い。「いいんだよ」「とにかく読んで」「君の意見が聞きたい」。そうして幸運なことに、勧めた相手もその本を手にとってくれて、そして読み終わって、「よかったよ」といってくれても、うまく返事をすることもできずに、「やっぱり、そうだろ」と返すことしかできない(すくなくとも、ぼくの場合)。

本を読むということは、基本的に、一対一の時間を過ごすということだ。雑念を払い、ゆっくりページをめくりながら、作家の物語・主張・論考に耳を澄ます。こうした時間が、言葉をとおして、「私」を育てる。一〇〇冊読んで足るというものではない。多様性とはそんなに甘いものではない。本という媒体をとおして考え続けることが、よりよい理想に近づくためのひとつの方法だと思う。

実をいうと、ぼくは絶望しかけていたのだ。全国の本屋さんの話を聞いて、本はもっともっと読まれなくなるし、本屋さんはもっともっと減っていくし、重たい言葉はインターネットの軽い言説に駆逐され、「効率的」「合理的」という物差しのもとに不要とされる。そんな未来が来ることを予想していたのだ。

そんなときに出会ったのが、『移動図書館ひまわり号』だった。一九六五年以前の暗い図書館の話は、いまの社会がたどり着く場所のように思えた。その暗い図書館が、五〇年前に、人々の情熱と知性と実践によって劇的に変わっていくさまは、ぼくの大きな希望になった。

『移動図書館ひまわり号』が絶版になっていると知ったときには、いつか復刊したいと決めていた。ぼくは『移動図書館ひまわり号』を読んで感動するだろう人たちと、前川先生たちが未来を切り拓いていったように、なにかをやりたいと思うのである。


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